天目山 興国寺[興国禅寺]
KOUKOKUJI ZEN TEMPLE

基本データ
- 宗派
- 曹洞宗
- 住所
- 〒822-1102 福岡県田川郡福智町上野1892 Map
- 電話
- 0947-28-3081
歴史
境内の説明板の内容をほぼそのまま記す。
福岡県指定有形文化財
- 木造元晦禅師坐像(指定番号 彫第四号)
- 紙本墨書興国寺文書(指定番号 書第三号)
- 興国寺佛殿(指定番号 建第四十六号)
當山興国寺は、伝に従えば足利尊氏発願による豊前安国寺の後身という。 古くは天台宗福智寺であったが、嘉暦元年(1326)無隠元晦禅師は 時の豊前・豊後の太守・大友貞宗の帰依を受けて最高開山となり、臨済宗となる。 のち、元徳2年(1330)後醍醐天皇勅願所として天目山寳覚寺と号した名刹である。
暦応3年(1340)足利尊氏により安国寺の第一位として安国福城山泰平興国寳覚禅寺と改められ、 天文13年(1544)豊前守護・大内義隆によって曹洞宗天目山興国寺として再興される。
右の如く南北朝以降の名刹として當寺には桧材寄木造り彩色、五眼[1]嵌入による南北朝時代の作で ある等身大の開山無隠元晦禅師の頂相彫刻がある。円頂[2]・衲衣袈裟懸けの坐像は、元朝天目山にて 中峰明本国師のもと参禅し17ヶ年の修行を終え師の法を嗣ぎ帰国され、聖福・建仁・南禅・円覚・ 建長の名刹に歴住した禅師の風貌をよく伝えている。
また、當寺の歴史を徴する古文書として、足利尊氏・同直義・同義持・大内盛見・同義典・ 同義隆等の書状を初めとして、南北朝より室町時代の中世文書、江戸時代小倉藩細川幽斎、 小笠原忠雄の文書等計24通(巻本二巻仕立)がある。
佛殿(観音堂)は享保4年(1719)の建築で質素なつくりが禅宗建築の特徴を示している。 柱などに建築当初の部材が多く残るほか、ひさし状に張り出した裳階を巡らす建築は県内でも 少なく貴重である。
なお、附石註一基は建設の期日を示し貴重である。
---福智町教育委員会
[1]五眼:仏語。真理を認識する能力を、眼になぞらえて5種に整理したもの。 肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼。
[2]円頂:頭を剃ったかたちのこと。
ひとくちメモ
興国寺は福知山の南西の山裾の街上野のはずれに伽藍を構えている。 上野は「上野焼」の里でもある。に最初にお参りしたが、静けさの中で突然の蝉しぐれ。 久しぶりの体験であった。
,は千手観音菩薩のご開帳日は近隣・遠方からの檀家さん、 観光客と思しき方々が多数参詣され、かなりの賑わいであった。
山門から山門楼へは約200メートルほどの古道があり、その左側の崖には多数の石仏が鎮座されている。 二重屋根の山門楼をくぐると池があり、その上にかかる石橋を渡ると本堂である。しぶい。
宮若市黒丸の清水寺とも縁のある寺院のようである。
興国寺より2kmほど曲がりくねった舗装されている坂道を登った所には、福地中宮神社、白糸の滝がある。 白糸の滝は古くは「梵音の滝」と呼ばれ、滝の両サイドには不動明王の石像があり、修験者の修行する場であったと思われる。
写真

山門楼 
観音堂 
観音堂入り口 
太子堂 
本堂の扁額 
鐘楼 - 右手は山門 
山門楼と境内をつなぐ石橋 - 左手が山門 
山門楼 - 境内より撮影 
本堂 - 正面が庫裏 
山門全景(ここより200mほど緑のトンネルが続く) 
山門入口(石柱には文政7(1824)年の銘) 
参道(左側の土手にはかなりの数の石仏が鎮座) 
本堂脇にネコちゃんがいました 
本堂裏手の杉林(画面中央下にポツンと墓碑) 
遠景 
境内風景(手前から太子堂・観音堂・本堂・庫裏) 
興国寺から眺める上野の街の風景 
白糸の瀧



