境内の案内板の内容をそのまま記す。
- 本尊 六地蔵尊
- 大祭 毎年4月23・24日
- 月例祭毎月23・24日
- 初地蔵 正月1日より4日
- 星祭り厄除祈願2月第一日曜日
由来
宗像大宮司家第78代雄郷[1]は天文20年9月(1551) 主君大内義隆が長州において陶晴賢に討たれ戦死された時、 宗像には正室菊姫があったが側室[2]の子氏貞を立てんとする者達のために翌年 3月23日の夜、山田の里において菊姫と母君4人の侍女と共に惨殺された[3]。 戦国乱世とは言え婦女子6人を一時に殺すと言うことは史上に この例を見ない悲惨亊である。 その後6女の怨霊の呪いによりてがこの暗殺に加わった者すべて 惨死する等怪異が続いたので6女の霊を慰める為に等寺を建立し 六地蔵を刻み本尊として安置したので漸く異変が終わったと伝えられて いる以来星霜移ること450年信仰遠近をとわす信者の多く特に 安産、子育て、厄除、進学、家内安全、諸病平癒、交通安全、 商売繁盛を願う人の産経が絶えない。
曹洞宗(禅)妙見山 増福院
[1]大宮司家第78代雄郷:宗像 氏男。天文20年(1551年)9月1日、大内義隆の自害に伴い殉死する。
[2]『福岡歴史探検』によれば、77代政氏の側室で、この側室は陶晴賢の姪にあたる。
[3]『福岡歴史探検』によれば、首謀者は氏貞の母で、陶氏の威勢を借りて実行した。
増福院は白山の山裾に伽藍を構えている。その白山には宗像家の城があったという。 境内にある案内板の内容をそのまま記す。
白山城の歴史
- 1182~1184(鎌倉時代)
- 第36代宗像大宮司氏家築城、約380年間宗像家の本城としての役割をはたす。
城跡には本丸、曲輪、堅堀跡が現存している。 特に山の井と称し、岩盤を刳り貫いた井戸が残っており、 これは全国にも例を見ない貴重な遺物である。- 1335(室町時代)
- 足利尊氏、関東で天皇に叛き反乱をおこす
- 1336(2月)
- 京都の合戦で敗れ、九州に落ち延びて来た尊氏を白山城に迎え入れる。 (宗像軍記)
- 1336(3月)
- 宗像大宮司は尊氏主従に軍備を整えさせ援護し香椎の多々良浜で、熊本の 菊池軍を奇跡的に破り勢いを盛り返した尊氏が室町幕府を開く。
- 1551(9月12日)(安土桃山時代)
- 黒川鍋寿丸(宗像氏貞)白山城に入る。在城12年間(最後の宗像大宮司)
- 1554(3月23日)
- 白山城下の山田の御殿に於いて宗像家の御家騒動による大惨事が演じられる。
- 1560
- 氏貞薦ヶ岳を再築し宗像家の本城とする。
増福院は宗像大宮司氏貞の時代、御家騒動の犠牲になられた人々の怨霊を鎮めんが為に、 六地蔵を刻み田地を寄進して霊を祀ってあるのが山田地蔵様(増福院)で宗像家とは 特に縁の深いお寺である。又お寺の裏山には尊氏が座禅をしたと言われる岩場がある。
宗像市史より 白山城址を守る会
増福院は、宗像家の城のあった白山城の麓に伽藍を構えている。 本堂裏手は急峻な杉林が聳えている。
本堂に向かって左手の石段を登ると菊姫廟がある。 墓石は長年の風雨の為か、やせ細っているものもある。
梵鐘は中国(宋)製といわれ1514年製と言われる。下部が末広がりでスカートのフリルのような 形状が特徴的である。
白山城跡には時間がなく登れなかったが次回は登ってみたい。