安延山 承福寺[承福禅寺]
JYOUFUKUJI ZEN TEMPLE

基本データ
歴史
上のホームページに詳しく記載されているが、境内の案内板の内容をそのまま記す。
承福寺文書
承福寺は、室町時代、宗像大宮司氏国[1]の家臣、 占部越前守安延の開基と伝えられています。宗像大宮司庇護のもと繁栄していましたが、 80代氏貞の没後、宗像大宮司家は断絶し[2]、衰微していました。
江戸時代の初期、筑前に入城した黒田氏はこれまで荒廃した寺院を立て直すべく、 寺領の安堵と、田畑を寄付し、承福寺を擁護しました。
本寺院には、この内容を書付けた古文書が残されており、黒田如水から綱政までの 5代にわたり寺の復興にむけて尽力したことが伺える資料となっています。
[1]宗像氏国:Wikipediaによれば氏国は宗像大宮司の嫡流に複数いる。第何代かは不明。
[2]世継ぎが無く、秀吉によってお家断絶させられた。
『筑前國続風土記』巻之17 ○上八村 承福寺上八の訓いぶかし。若は上入と書きしを、あやまりて八の字かくにや。に下記のように記載されている。
山號安延山、開山月潭、或は號月菴。
此寺に大宮司の墓五六有。 氏貞をも此寺に葬る。 今も墓有。 土民は此墓所を御塔と云。 氏貞の影像並位牌有。 氏貞を即心院と號す。 叉此寺に児殿と土民の称する墓有。 氏貞の子を葬りしと云。
此寺に如水公より田地を寄附し給ふ。 今にしかり。 叉如水公より此寺の後の山を寄附し給ふ証文有。 故に其後代々の国主も、証文をはたへ給ふ。
此寺佳境也。 此村民彦三郎富人也。 延寶年中1673-1681の凶年には、財を出して貧民を救ふ。 国主も感賞し給ふ。
禅僧芳長老が父の宅も此所に在。 対馬に行て朝鮮と書簡の贈答せし名緇[3]也。
[3]緇:僧侶のこと。
ひとくちメモ
承福寺は湯川山の西の麓に伽藍を構えている。2011-10-01にはじめてお参りしたが、ちょうど本堂前のキンモクセイが 満開でとても良い香りが漂っていた。また、境内から眺める玄界灘も絶景である。承福寺裏手には湯川山への登山口がある。
承福寺のより西側に少しゆるい坂を下った所に宗像氏貞の墓所がある。
承福寺のホームページは頻繁に更新されているようで、和尚様の法話など満載である。
ちなみに、承福寺がある地名「上八」は「こうじょう」と読む。どうやっても普通は読めない。 益軒は上の『筑前國続風土記』の中で「上入」の書き間違えではないかと書いているがこれも「こうじょう」とは読めない。
写真
宗像氏貞の墓所
墓所に入り口にある案内板の一部を引用する。
史跡 宗像氏貞の墓地及び石塔
第80代宗像大宮司宗像氏貞は戦国乱世の時宗像一円を よく統括した、宗像氏最後の英傑です。 1578(天正6)年に焼失していた宗像大社本殿を再建しています。 しかし、1586(天正14)年に宗像大社境内復興半ばで病に倒れ 蔦ヶ嶽城にて42才の生涯を終えています。 法名は「即心院殿一以鼎恕大居士」と号し門前乙尾の丘陵上に 埋葬されたと伝えられています。
取材で墓所の前を通った時に地元のご婦人と思われる方が、墓所の前で手をあわせて通りすぎていた。 地元の方々の信仰の深さを感じた。













