独鈷寺山道前の案内板の内容をそのまま記す。
独鈷寺
独鈷寺は、立華山明鏡院独鈷寺と称し、天台宗比叡山に属します。 延暦24年(805)、伝教大師(最澄)が建立した天台宗開祖の寺として伝えられており。 、最盛期には36坊を数える大寺院でした。しかし、立花城攻防戦などの戦乱 でほとんどが消失し、現在では独鈷寺が残るのみとなっています。唐から帰朝 した最澄は、古賀の花鶴ヶ浜に上陸されました。霊地を求めるため、持参した 独鈷と鑑を空高く放り投げたところ、二神山(立花山)のほうに輝きながら 飛び去っていきました。それを追って最澄は山に分け入り、落ちていた場所に 草庵を建てた、という独鈷寺建立の伝説が残っています。
寺の境内には、清水が湧き出る「独鈷水」と、修行のための座禅されたといわれる 「座禅石」があります。また、寺宝として、独鈷と鏡の他に鎌倉時代から江戸時代初期に かけての仏像、徳川二代将軍秀忠が奉納したとされる掛仏が安置されています。 -- 平成17年 新宮町教育委員会
次に独鈷寺境内の案内板の内容をそのまま記す。
天台宗明鏡院独鈷寺由来記
西暦804年、第50代桓武天皇の御代延暦23年7月、菅原清公朝遣唐使として 入唐せしめ給う時、僧、最澄(伝教大師)も、求法の為同船海を渡り天台山に入山、 霊旦四明にて天台の法、顕密の二教を授かり24年6月帰朝、花鶴の丘(現古賀の浜)に上陸、 法を広むき霊地を定めんと持参の壇鏡と独鈷を祈念の上虚空に投げ放つと鏡の光虚空に輝き 独鈷と共に飛び去った。
光彩を追って急がれる途中で猟師に会われた大師は「何か奇端と思われることはなかりしか」 と尋ねると猟師は「私は上府に住む源四郎と申す者で、前夜より二神山(立花山)へ鹿狩りに行き 待つうちに、一片の火焔飛来し奇怪な響きと大地の震動生きた心地もせず、近くの観音堂にて無事を祈り 夜明を待ち下山する処です」 との答えに大師は「拙僧をその場に案内してくれ」と申され、猟師の道案内で登山途中、 傍の大岩石上に二つの宝器があり大師はこの大岩石の上で座禅を行い広大な仏思に感謝、 この地こそ霊地ならんと一宇の草堂を造立し、自ら薬師如来の尊像を刻み安置、この地水無き為 独鈷にて大地を穿つや息ち清水湧き出たるを閼伽として、天下泰平、国家安寧、萬民豊楽を祈願 されたのが六所管内にある薬師堂である。また、独鈷水の井は今も旱両に増減の憂いなく、 唐国より持参の菩提樹の一枝は枝葉を生じ繁茂せるとか。
大師は布教活動のため座禅石の後方に寺院を建立(現独鈷寺)し、天台宗・顕教二教の普及に 励まれましたが後に僧賢尚に譲られ京都の比叡山に天台宗の総本山として比叡山延暦寺を建立された のである。
この地は霊地として繁栄して36坊の末寺を有す大寺院となるも、栄枯盛衰は遁れざる処で元亀の頃は 僅かに6坊となり更に薩摩軍の立花城攻めの折、皆焼失するも大師の壇鏡、独鈷を持ち伝えた寺院として 立華山明鏡院独鈷寺と改め最高されたのである。
伝教大師、帰朝の初の開基なされし霊場の地なれば寔に扶桑最初の天台山とも言われるべきで、 この山中に心澄ませば寂然不動にして諸法実相など体得するやも知れず、梢を伝う春の風自ら百花を 供養し求菩提の姿目のあたりにして嶺より出る秋■■普く十方を照臨して下化衆生の影■楽しむことも よいでしょう。
--- 立華山明鏡院独鈷寺 当主(案内板の裏に平成17年12月 当山九十四世住職 松澤 宣明の銘あり)
独鈷寺は立花山の東側の山裾にひっそりと伽藍を構えている。 近くでは日曜日には朝市が開催されているようである。 独鈷寺の前は車の行き来が激しい。
薬師堂は独鈷寺に隣接する六所神社の本堂に向かって左手にあります。
独鈷の実物は滝田商店 のページでご覧ください。
独鈷寺に保管されている独鈷は、住職にお願いすると気軽に拝見できるとの噂を聞きました。 本堂にもその旨の張り紙はありました。お時間がある方は一度ごらんになってみてはいかがでしょうか?
※独鈷寺前のR540を南東方向に300Mほど行くと梅岳寺があります。こちらもお参りされてはいかがでしょうか?
唐での修行を終えた最澄が独鈷寺を開いた際に協力したお礼として西暦805年に法火を授かったと 言われている千年家(横大路家) が立花山の北側にあると云う(粕屋郡新宮町上府420)。 その火は今でも維持されているそうである。機会があったら訪問してみようと思う。







