染井山 霊鷲寺趾
FORMER REISYUUJI TEMPLE
基本データ
歴史
霊鷲寺は江戸期までは染井神社の下に伽藍を構えていたようである。 『筑前國続風土記』巻之22にその歴史が記載されている。少し長いがそのまま引用する。
○染井山
高麗寺村の内也。染井山霊鷲寺有。其上に熊野権現の社有。
里俗の傳に曰、神功皇后三韓を討給はむとて、此山に臨幸ましゝて、 井のほとりに来り給ひ、異國を討んに勝利を得べきならば、此鎧緋色に染るべし。 若勝事を得ずんば、本の色成べしとて、鎧を井の水に浸したまひければ、忽緋に 染りぬ。其鎧を染給ひし井なりとて、染井と名付て今に在。 (此井は染井の本社へ行道側、谷の方に在。本社より西に當る。其廣は方三尺六寸あり。) 此故に染井山と號す。扨右の染給ひし鎧を、山の上なる松木に懸て干給ひける。 此松は鎧懸の松とて、慶長の初迄大木ありしが今は枯てなし。
其松の在し側に緋威の石とて有。其石長五間、高二間、上の平なる處、疊三疊を 敷くばかり、少しかたぶける所又同じ。凡六疊を敷くばかり有。緋威の鎧を懸給ひし松 の側に在故に、緋威の石とは云成べし。
又薬師堂の後の山に、旗染松迚大なる松有。 其木の本、周匝五圍、甚大なる樹也。枝葉甚うるはしくり榮えて、 他木に異なり、愛賞するに堪たり。枯葉なくして弱木の如し。 篤信會て諸國を経歴せしに、かゝる松はいまだ見侍らず。 山州日の岡の千本松、摂州住吉の津守の庭松、播州會根の松、明石の老松、 高砂の尾上の松、相州金澤の筆捨松、江州唐崎の一松抔、いづれも奇異なれど、 美はしき事は是に及ぶべからず。是は神功皇后旗を染て干し給ひし故に此名有。
是を以、又薬師堂の前に老樹の松二樹有。二樹共に其枝道に向ひ右に轉じて、 其奇異なる霊木也。地にはへる如くなれば、是を葡萄松と云。其末は又両枝共に高くのぼり、 聳えて相向へり。摂州住吉の社官津寺氏の宅中、神功皇后■正印殿の前なる老松は、津守國基初植しかば、すでに六百年 に及ぶと云。此松も彼の木成べし。
此山昔は豊玉姫鎮座ましゝ、上宮中宮下宮とて三所をしめ、神庿尊くして、さばかり繁栄の地也しとかや。 今は唯其名のみ残れり。其後聖武天皇の勅願として、清賀上人此地に始て寺を立、 僧舎四十ニ坊を作りて、染井山霊鷲寺と號して、薬師堂を安置せり。
(中略)
夫より後は偏に寺院と成て、神社は側に残り、佛堂は本殿のごとくなれり。 昔は此社に神領も多く寄附せられ、舊き文書など多く有しが、明應八年凶族亂入して散失せし由、 大内家の文に在。四十二坊も絶て、唯一坊のみ残れり。
(中略)
凡此地の風景佳なる事他に異なり。尤遊見して幽賞すべき霊地也。 凡怡土志麻両郡に五佛とて、名像五所に在。東は染井山霊鷲寺本尊薬師、 南は、雷山千如寺本尊観音、西は、 一貴山夷巍寺本尊阿弥陀、 北は、登志山誓願寺(今津に在)本尊釈迦、中央は太租山大日寺本尊大日也(泊町に在り)。
同じく巻之2に「怡土郡高麗村の境内也。今纔三坊存せり。むかしは四十二坊ありと云。」 の記述があり、かなりの大寺であったことがしのばれる。
ひとくちメモ
霊鷲寺は高祖山の西側山麓に伽藍を構えていた。『筑前国続風土記』によれば染井神社の下にあったとされが、今はその場所は定かではない。 ただ、神社下に石仏が安置されている建物が二つあるのでこの辺りにあったのかも知れない。
貝原益軒も書いているように染井神社参道は苔むしていて絶好の散歩コースである。
霊鷲寺趾の北西約350mのところに染井の井戸がある。
霊鷲寺は怡土七ヶ寺(千如寺、 霊鷲寺、 金剛寺、 小蔵寺、 楠田寺、 夷巍寺、 久安寺)のひとつに数えられている。
写真

本殿裏の枯れた鎧掛の松 
本殿裏の石像 
本殿前の手洗石 - 文化8年の銘あり 
参道脇の沼にかかる石橋 - かなり古いもののようである。 
神社下の仏像の安置されている建物 
神社下に安置されている仏像 
神社下に安置されている仏像 
神社下の仏像の安置されている建物横の石仏 
神社下の仏像の安置されている建物 
染井の井戸付近のR56から観た可也山
染井の井戸
染井の井戸は、染井神社参道入り口の染井信号より300mほR56を北上したところにその入り口がある。 以下に井戸脇にある案内板の内容をそのまま記す。
染井神話
ここの井戸の名を、染井の神水といい、糸島の古代が語られています。
「日本書紀」は仲哀天皇の皇后を神功皇后(息長足姫尊といいます。九州地方に、クマソ一族が強い勢力を持っていたという時代。
大和朝廷の威力を広げるため、奈良を出発して天皇の軍隊は、クマソとの戦いで仲哀天皇が、敵の矢にあたり陣中で亡くなられます。
クマソの勢力が強いのは、新羅(朝鮮半島東南部)の後押しがあるからだと判断され、玄界灘を渡り新羅へ軍を進めようとされました。
皇后の軍が、怡土の山麓に本陣を置いて、滞在されたときは、大和の国を出て、すでに二年あまりが過ぎていました。
仲哀天皇は亡くなられ、将兵は悲しみと、戦いの旅に疲れ果てて、故郷恋しさの思いが全軍の心を重たく包んでいたのです。
皇后は、みずからも男装し、悲しみをのりこえる勇気を奮い立たせるため、将兵たちに一つの奇跡を祈ろうと思われました。
ある朝、皇后は将兵をつれて近くの泉に行かれ、一つの白生地のヨロイを手に高くさし上げて見せられました。 このヨロイは、九州の朝倉の戦いで亡くなられた夫、仲哀天皇のまだ使われていないヨロイの一つです。 「皆の者、われらの天皇の意志を継ぎ、今遠く海を渡り、新羅の国は進もうとしている。 昨夜、不思議ば心霊のお告げが私に現れた。もし、この泉でヨロイが赤く染まることがあれば、この戦いは必勝である。 万一染まらないならば望みがなし。早々に軍を引き返したが良いとのお告げ。みなの者、心を静めて見つめるがよい。」
ヨロイは全軍が見守る仲、静かに泉の中に沈められます。
一刻、二刻の後、再びゆっくり引き上げられたヨロイに、奇跡が起こりました。真清水の泉から現れた白生地のヨロイは、 色も鮮やかな真紅色に染まってキラキラと、したたり輝いているではありませんか。
「勝ちいくさだ。」皇后も将兵も吾を忘れて朝空に叫びました。
うち沈んでいた全軍の士気が、ふるい立ったのは、もちろんです。
ヨロイは、やがて近くの松の枝にかけて干されました。この松は古来より「ヨロイ掛けの松」と称し、見事な枝ぶりの巨樹となり、 近くの染井神社の境内に生存したことを「筑前国続風土記」に貝原益軒が書いています。
近年になりこの松は枯死し、その幹株が染井神社に保存されています。
この後皇后の軍は西(二丈町)へ向かって出発し、深江の子負が原海岸で必勝と海路安全と安産を祈り二つの 玉石を懐中にして船出されます。
軍が日本へ帰還の後、皇后が御出産されたのが応神天皇と神話は伝えます。
安産祈願を懐中された意志を祀ったのが、鎮懐石八幡宮です。
軍が深江へ向かう途路「飯原」で駐屯された時、雉の鳴く声が琴の音のようにひびいたという吉兆の場所 雉琴神社が現存しています。
神功皇后に関する伝説神話は、瀬戸内海から北部九州沿岸にいたる所に、鞍かけ石、馬つなぎ石、■置石、船出浜 など数多く遺跡が点在します。
染井神社は、神秘を秘めた古式の雰囲気を今も山中にただよわせる社です。
福岡藩六代藩主継高はこの地に遊び神水を汲み、歌を献じています。
濁りなく昔をうつす鏡とは けふぞ初て三染井の水 前原市







