海晏山(かいあんざん)  興徳寺(こうとくじ)  KOUTOKUJI ZEN TEMPLE redred

  • 山門
    山門 
  • 鐘楼
    鐘楼 
興徳寺・塩浜の図 能古嶋・生松原 解説
興徳寺・塩浜の図 能古嶋・生松原 解説
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』

基本データ

宗派
臨済宗大徳寺派
住所
〒819-0002 福岡県福岡市西区姪の浜5丁目23−1  Map
電話
092-881-0315

歴史

寺前の案内板の内容をそのまま記す。(注釈・ふりがなは作者が加筆した)

当寺は臨済宗大徳寺派に属する禅寺である。 文応元年(1260年)時の鎮西探題(ちんぜいたんだい)北条時定の建立にかかり、 開山は南浦紹明(なんぽそうみん)[1]である。 南浦は嘉元元年1235いまの静岡県安部郡に生まれ 15歳にして鎌倉の 大覚(だいかく)禅師に就いて禅法を学んだ。 後志をたて25歳、万里の波涛を航して中国に渡り、当時禅界の巨匠虚堂(きどう)禅師に就いて九年間、 その蘊奥(うんのう)[2]を尽くして帰朝し、 文永7年1270当寺の開山第一世となった。

中国においては南宋の滅亡に際し、まさに断絶せんとした、 一縷(いちる)の法が、この南浦の力によってわが国に伝えられ、今日禅界に燦然と光茫を放っている。 故に南浦を日本の達磨(だるま)と称する ものである。 その後四度法筵(ほうえん)[3]を移し、 延慶元年1308遷化[4]した。時に74才であった。

翌年御宇多天皇から円通大應国師の号を賜った。

--- 国指定重要文化財

[1]諡を大応国師と言う。聖一国師の甥にあたる。

[2]学問・技芸などの最も奥深いところ

[3]仏法を説く所(従事するお寺を替えた)

[4]亡くなった

筑前國続風土記』巻之20の内容をそのまま引用する。(注釈・ふりがなは作者が加筆した)

○興徳寺

姪濱に在。海晏山と號す。 創立の時代詳ならず。 大應國師、南浦明和尚唐土より帰朝の時、此寺に来て三年住居す。 其時此所の尼、大應の絵像を書せ賛を乞う。大應賛を書て與ふ。 其掛軸(かけもの)今に此寺に在。 大應國師は其後御笠郡崇福寺に住持せり。

興徳寺初は市中に近かりしが、天和二年(1682)、光明寺と云廃寺有しをこぼちて、 其跡に移せり。 光明寺開山一庵は、大應の弟子也。 光明寺に木像有しを、今も興徳寺に安置す。

昔興徳寺に子院八區あり。 白毫寺、東光寺[5]檀林寺[6]、山楽院_SUP(7)は猶残りて、姪濱市中所々に在。 其餘四區は皆廃絶して今はなし。 四區の廃寺、圓満寺、清芳軒、圓通寺、東照寺。

[5]東光寺;は姪浜住吉神社のすぐ裏手にある。

[6]檀林寺:「照林寺」の誤植と思われる。

[7山楽院は2011-06-01現在この近辺には存在しない。おそらく廃寺となったのであろう。

南浦紹明(大應国師)

承天寺の開山聖一国師の甥にあたる。興徳寺開山の後2年間同寺に居住後、文久9年(1272年) 現在の地に移転前に太宰府にあった崇福寺にも33年間在住しているとのこと。 --『ふくおか歴史散歩第3巻』より

ひとくちメモ

興徳寺は旧唐津街道姪浜宿 の西構口があった場所のすぐ内側に伽藍を構えている。 『筑前国名所図会』には名柄川にかかる興徳寺橋も描かれている。

本堂に向かって左手の池の奥に坂道がある。そこを登って行くとまだまだ境内が続く。 そこに、開山大應国師の墓碑もる。お見逃しが無きようご注意のこと。 尚、一番奥は墓地になっている。

Link

旦過だるま堂 ・・・姪の浜にある当寺院の旦過寮

興徳寺 - 文化財情報 - 福岡市の文化財 | 福岡市の文化財

写真

  • 山門
    山門 
  • 境内
    境内 
  • 開山大應国師の墓碑
    開山大應国師の墓碑 
  • 歴代和尚の墓碑
    歴代和尚の墓碑 
  • 楠の木
    楠の木 
  • 境内
    境内 
  • 境内
    境内 
  • 境内
    境内 
  • 境内
    境内 
  • 境内
    境内 
  • 境内
    境内 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 境内風景(愛嬌たっぷりのお顔)
    境内風景(愛嬌たっぷりのお顔) 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 境内風景
    境内風景 
  • 境内風景
    境内風景