『筑前國続風土記』巻之三によれば下記の通りである。
山号を海龍山清照院と云う。 開山は桂空舜道で慶長5年1600に亡くなった。 浄念寺と大長寺とともに「國中浄土宗西山派の號令を握る」とある。 寺内に照福院(黒田如水の夫人)の弟の櫛橋宗雪の墓がある。
『筑前國續風土記付録』巻之2 福岡上の大工町の項に浄念寺の説明が記述されている。 桂空舜道のおいたちなど事細かく記載されている。 桂空舜道は空誉上人を師としていること。 『筑前國続風土記』で桂空舜道の亡くなったのは正保2年1646の誤りであることなど記載されている。
境内の石碑に空誉上人の略歴が掲示されている。その内容をほぼそのまま記載する。 (段落、ふりがなは作者が挿入した)
空誉上人縁起浄念寺に伝はる縁起に依りその概要を示す
仰せに名高き空誉上人と申すは播州明石の人にて仏道儒学且つ武術に勝れたる黒田家帰依の名僧なり。 黒田家中興の祖如水公が播州姫路より豊前中津に入国の際■従し来り今の合元寺を再興し開基となる。 制韓の役に従軍し黒田公の秘書役を勤め関ヶ原戦後公の筑前に封ぜらるるや上人随従して福岡に来り今の橋口に寺地を賜り一寺を建立開基となり地福寺と称す。 又水鏡天満宮を勧請して鎮守をする今の県社水鏡天満宮是なり。 又公より寺領200石を賜り慶長14年には如水公御父君心光院殿満興宗円大居士の法要を同寺に於いて営み阿弥陀経千部を修せらるるにあたり絵師に画像を画せ上人に其賛を命ぜられたり。
是より先黒田家の重臣にして上人と別懇の交り深き後藤又兵衛基次故ありて福岡を退散 慶長16年1611関東大阪手切の際大阪城に入る。 これが為関東の疑ふところとなり公大いに憂い窃に基次を召還して害せんとし屢密使を派し甘言を以って百方帰国を勧むるも基次言を左右して帰らず。 公の煩悶益甚し折柄め■[1] ■[2]の徒基次の帰らざるは全く 空誉上人の国情を内通せるによるとざん言を為す。 公之を信じ大に憤り直に捕吏を地福寺にむけ上人を逮捕。 即日洲崎の浜[3]にて背部を割き熱鉛を鋳込みて残死せしめ死体はその場に捨置かれたり。 これ実に慶長16年1611辛亥8月6日の出来事にて沙門の身に極めて重き刑罰なり。
当山の開基桂空舞上人は師弟たる縁故を以って死屍の下賜を願いたれど公の怒り解けず 許しなきのみならず之か為地福寺の法牌画像並寺領等は同寺の法脈たる浄念寺に下附さるべきものも没収せられたり。 舜道上人は師匠の死を決し弟子舜沢と共に10日の夜月の落ちるのを待ち浜辺伝いに忍び行き 夜明け窃に死体を背負い帰り来て心ばかりの土葬をいとなみ師の高恩に報じたる。
此後は事もなく公より何の詮議なく又世に知る人もなく打過ぎたり。 只墓の傍に一本の松ありけるが鳥類之に止れば忽ち落ちて死す。 それより誰言ふとなく其松の下に空誉上人の墓ありと追々流布し又信心の者立願すれば其験ありとて此事次第に云い伝へて今の世に宿願の人絶えす。 後小祠堂を建立し毎年8月朔月より6日まで祭典を行い参詣の人群集す。
因に空誉上人の刑罰に処せられたる場所として口牌に伝りたるは県庁の裏手葦沼の内にありて其個所には未だ曾て葦草の生じたることなしと伝へり。 明治43年九州沖縄八県連合共進会々場として埋立てられ現在県庁舎裏官舎の敷地なり。 昭和2年官舎に数度霊夢を感じたる人ありたりとて其個所に一小祠堂を建立祭典を執行せらる。
本年は恰も空誉上人刑死より348年回忌に相当す。 毎年8月5日より2日間当山に於て祭典を執行し大いに慰霊の誠意を表し茲にいささか其縁起を述べ御同情を希ふ所以なり。
昭和33年8月 福岡市大工町 浄念寺 24世 忍空宏淳
[1]■:人偏に妾
[2]■:女編に立
[3]洲崎の浜:「福岡藩刑場跡」として福岡県庁跡地の南端にひっそりとそこにある。(右写真参照のこと)
櫛橋宗雪の墓はまだ確認できていない。
上で書かれている空誉上人の処刑については風に吹かれて:福岡刑場跡と空誉上人にも詳しく記載されている。
浄念寺の前は旧唐津街道である。 『筑前国名所図会』巻一に当時の様子が描かれている。 尚、右図の詳しい説明は圓應寺のページに記載している。