境内の掲示板の内容をそのまま記す。
浄土宗圓應寺は慶長7年(1602)4月、黒田如水公 の婦人照福院殿が創立した。
当時は照福山顕光院と号し、京都知恩院 に属す。 開基は天蓮社眞譽上人見道和尚である。
照福院殿は播州志方の城主櫛橋豊後守伊定 の娘で天文22年(1552年)の生まれ。永禄21年(1566年)16才で 黒田孝高[1] に嫁し長政[2] を生んだ。戦国時代の武将の妻らしく 前半生は波乱に満ちたものだったという。
寛永4年(1627年)8月26日,75才で福岡城で亡くなり照福院殿としてこの寺にまつられた。 寺は昭和20年の戦災にあい、戦後の都市計画で墓地が道路と公園にかかったので 照福院殿の墓は崇福寺[3]に移された。 寺内には昭和55年建立に供養塔がある。
墓地は冨禄武家の墓が多く、黒田節の作詞をした国学者二川相近, 黒田25騎の桐山丹波守,更には国士無双といわれた玄平社 頭山満翁の墓もある。
黒田藩との関係から、孝高公には本尊阿弥陀如来像(快慶作) 長政公からは月俸および白銀、 忠之公[4] から知行百石, 継高公[5] からは早良郡七隈村に二万二千坪の 土地を拝領。
寺宝として弁財天一体、大黒天一体がある。弁財天は弘法大師(空海)の直作で、大黒天は 伝教大師(最澄)一刀三礼の彫刻という。
現在の本堂、納骨堂等の伽藍は昭和54年(1979年)の建立である。(平成4年(1992年) 第35世 圓譽代)
圓應寺は『筑前國續風土記付録』巻之2 福岡上の簀子町の項に、 正法寺と共に説明が記載されている。 また制札場があった旨の記述も見られる[6]。 同大工町の項に浄念寺の 説明が記載されている。 これらの事から下記の位置関係がこの図から推定される。
右図は上部が北(博多湾)。下部が南(福岡城)[7]である。 中央に東西に走る道が旧唐津街道である。
その街道沿い海側に東から西に浄念寺、円応寺が並んでいる。 尚、両寺の間に雲が描かれているが、その位置に正法寺があるものと考えられる。
図の雲の位置の街道の南側には制札場らしきものが描かれている。
[6]制札場:「此町の南側大工町に境へる所にあり。また同所に驛舎一軒あり。」
[7]福岡城:この絵の下側にあるはずであるが、軍事上の制約で雲で隠されている。