『筑前國続風土記』巻の三によれば下記の通りである。
山号を心光山雪幹院と言う。大長寺には黒田如水の父美濃守職隆の位牌及び書画がある。 その理由は、次のとおりである。如水の弟黒田修理圓則が那珂郡一の瀬村に職隆の寺を建て、 心光院西岸寺と言っていた。開基の僧を長徹と言う。圓則が亡くなりその寺を福岡城下に移そうと していた。その時大長寺の寺住文室が亡くなりその跡継ぎもいなかったことから 西岸寺の僧を大長寺に移し、職隆の書画位牌も一緒に移し、元和3年(1617年)職隆の三十三回忌 にあたる時、大長寺の山号を「福生山」より「心光山」に改めた。
貞享元年(1684年)光之が大長寺で法事を行わせた。鎌田九郎兵衛が代参した。 光之は故あって参拝していない。
作者は光之が参拝しなかった訳が気になる。
1800年前後の大長寺の絵が九大ディジタル・アーカイブに描かれている。 現在も絵に描かれている位置とほぼ同じところに同じような石堂がある。 (下の写真のを参照のこと)