鳴渡山 音声寺[音聲寺・鳴渡観音] ONSYOUJI TEMPLE
基本データ
歴史
秋月氏の家臣であった恵利暢尭が諫死したのちに、秋月藩初代藩主黒田長興が入国の際、 その忠節に感じて建立したのが、音声寺であるという。
『筑前國続風土記』巻之10 ○秋月の項に下記の記載がある。段落・注釈は作者が付加した。
音聲寺(真言宗) 鳴渡山南福院と號す。 古心寺艮[1]にあり。 石體の観音あり。むかしは少弐何某積憤有て、 この石に踞し、 腹を切りて死たりしが、死後に其怨を報じ、其敵を殺せしと云。
叉秋月種實の家臣に、惠利内蔵助と云者あり。 本より武功もありしが、天正15年の春、秀吉公九州征伐せんとて、 下向しまたふよし風聞あり。 秋月種實は無二の島津方にて、偏に籠城の用意をせしかば、 先いつはりて秀吉に降参の使者を上せ、その軍勢をうかがひ、 敵の様を見るべしとて内蔵助を指遣しける。 内蔵助安芸国廣崎にて、秀吉公に行き合、 則陳所に伺候し、秋月種實が使のよしを申上る。 浅野弾正是をとり次、秀吉公聞たまひ、 内蔵助に対面有て、 秋月は島津と無二の一味たるよし其聞えあり。 島津合体の志を翻し、吾見方に参るべきとの使ひ尤もなり。 さあらば、筑前筑後両国を充つべし。 汝急ぎ馳下て、此むねを秋月に申べしとの仰にて、 御腰物を下されける。 内蔵助急ぎ秋月に下り、種實に此由を申、且秀吉公の軍粧盛なるあり様、 大群のいがめしき事を告て。降参致べしと申しければ、種實おおいにいかり、 汝は秀吉に謀られけるよな。 吾は島津と7代までの知音なれば、其義を変じいかでか秀吉には馬をつなぐべき。 いと片腹痛き哉とぞ笑ひける。 内蔵助此由を聞、秀吉公の勢ひ敵し難き由を、つぶさに語りければ、 種實及家臣等皆是を聞てあざけり、偏に内蔵助が臆病にて、かくはいふぞとわらひける。 内蔵助是を聞、以後に思知べき事ながら、 当時の面目を失ひける事をいきどほり、 此石に踞て自殺せし石なれば、 心ある人は哀を催すべき事也。 され共これを観音として拝するは、理なき事なりし。
観音堂の前に小川の流れありて、常に水のなる音あれば、鳴音と名付け侍りしにや。 叉音聲寺の前に大石あり。長4間2尺7.8m、横3間5.4mあり。 其上まるく廣くして、山形に似て、さながら削りなせるが如し。
[1]艮:東北
[2]恵利内蔵助:恵利暢尭(えりのぶたか)
筑前国中三十三観音霊場 第二十九番
ひとくちメモ
音声寺は、古心寺の境内より狭い道を少し登った小川の向こうにひっそりと伽藍を構えている。 そこに行く途中に"腹切り岩"がある。その隣には「長4間2尺横3間」の岩も現存している。(右写真参照のこと)
"腹切り岩"脇の案内板(甘木市教育委員会 1979-12)によればでは秋月氏の家臣の恵利暢尭はこの岩の上で、 妻子を刺し、その後自分が腹を掻き切って死んだように記述されているが、上の『筑前國続風土記』では、 腹を掻き切った石は本尊の観音様を刻んだ石であるとしている。"腹切り岩"の石とは無関係とみている。 どちらが正解なのか分からない。
また、同案内板によれば、「堂下に暢尭の墓と伝えられている一基の墓石がある」と記載されている。 本堂に向かって左手に墓石らしいものがある(下写真参照)がこれがその墓石なのかどうかは未確認である。
音声寺前の案内板によれば、寺前の道を暫く登ると一枚岩の花崗岩で作られたキリシタン橋など秋月氏ゆかりの遺跡がある。 大龍寺跡のページを参照のこと。









