大龍寺跡 FORMER DAIRYUUJI TEMPLE
基本データ
歴史
秋月氏第14代当主秋月種時1490-1531の墓標があり、その周辺は広大な大龍寺跡である。 下に音声寺の橋の脇にある案内板の内容をそのまま記載する。 この陶板製の案内板は心ない物の手で傷つけられている。
鳴渡谷の奥には秋月種時の墓がある。歴代当主の中で唯一秋月に残る墓である。 その一帯が秋月家の菩提寺である大龍寺の跡地といわれている。
天正15年1587豊臣秀吉の九州征伐1586-1587により、秋月種実1548?-1596[1]・ 種長1567-1614[2]は、 日向財部(宮崎県高鍋町)に移封された。この時大龍寺も秋月氏と共に財部へ移っていった[3]。
-- 甘木市(1999.3)
『筑前國続風土記』巻之10 ○秋月の項に下記の記載がある。
荒平山、秋月邑の境内也。 野鳥村の西にあり。 下より四五十間ある山なり。 上に宅址あり。 隍堀廻せり。 城址には非ず。 秋月氏家人の屋敷址なりしといふ。 但秋月氏の、里城のやうにかまへたる所にして、 家人を常に留守とせし所なるにや。 秀吉公九州征伐の時、天正151587年3月6日、 此所に逗留したまふ。
大龍寺址、秋月邑の谷中にあり。是禪寺にして、 開山は嘉麻郡臼井村永泉寺の弟二世泰伯和尚なり。 秋月氏世々先祖の墓地たりしとかや。 今は寺院もなく、此址のみ残れり。 其所に古墓あり。 石に龍充珽種居士[4]と刻めり。 然れ共いかなる人にや知りがたし。 叉鳴渡山観音堂の上に秋月氏の墓あり。 此所も大龍寺の境内也。 隆景の家臣手崎東市助の石碑もある。 上の山を大龍寺山と云。
[4]龍充珽種居士:中央の大きな墓標には確かにこの文字列とおぼしきものが刻まれていることを作者は確認した。
ひとくちメモ
大龍寺跡は杉林の中にひっそりと鎮座している。あるのはいくつかの小さな墓標を左右に従えた秋月種時の2mはあろうかと思われる墓標のみである。
大龍寺跡への道筋は、音声寺の前の小川沿いにゆるやかな坂道を230m(案内板に記載されている)ほど登ったところに キリシタン橋があり、その少し先に大龍寺跡への案内板(あと100m)がある。そこからは杉林の中を進む。
普段は人気が無いところで単独行は危険である。
キリシタン橋脇の案内板によれば、この橋の裏側にはマリア像が刻まれているとのことである。 上の案内板の側面にこの橋の由来が記載されている。下に引用する。
この先にはキリシタン橋・キリシタン畑というキリシタン関連の伝承が残る場所がある。 秋月にキリスト教が伝わるのは、元亀元年1570。 最盛時には2000人以上の信者がいたという。 慶長12年1607に建てられた天主堂は、この地にあったのかもしれない。









