濡れ衣塚
「濡れ衣」の言葉のいわれの一つの話である。「濡れ衣」のいわれはこの濡れ衣塚以外にもあるらしい。
場所
福岡市博多区千代3丁目2-9
歴史
『筑前続風土記』によれば下記の通りである。
聖武天皇の頃(724年~749年)、佐野近世と云う人が、京より筑前の守として赴任したが、 京から連れてきた妻が亡くなった。そのため、筑前国の女性を後妻とした。 後妻が先妻の娘を殺そうとくわだて、海人[1] に金品を与え「姫君が夜な夜な私の元に来て 着物を盗んでゆきます」と嘘を云うようにしくんだ。それを聴いた父親は怒って娘の所に行ったらば、 娘は濡れた衣をかぶって寝ていた。これは後妻が娘が寝入ったときに着せたものである。 父は激怒して娘を殺した。
その翌年、殺された娘が父親の夢に出てきて二首の歌を詠んだ。父親はその娘に罪が無いことをさとり 、後妻を里に返し自分は出家した。
この言い伝えにより、身に覚えのない罪を負う事を「濡れ衣」と云うようになった。
その娘の墓は、昔は聖福寺 の西門の側にあったのを、近年箱崎松原の西の橋際、博多の東、石堂川の東の側の内 にある。大きな石がその印である。娘が詠んだ歌は下の二首である。
「ぬぎぎするそのたばかりのぬれ衣は ながきなき名のためしなりけり」
「ぬれ衣の袖よりつたふなみだこそ なき名をながすためしなりけり」
[1]おそらく漁師の事であろう。
康永三年銘梵字
濡れ衣塚のある場所は、上記の『筑前続風土記』に記載されている場所にほぼ近い場所にある。 御笠川と国道3号線にはさまれた 石堂橋のたもと近くにある。 昼夜を問わず車の騒音が激しい所である。 その塚の内に福岡市教育委員会の案内板がある。
この石碑は、 板碑とよばれる中世の石造物で、 玄武岩の自然石を用いています。高さは約165cmで、梵字が正面3箇所に太く刻まれています。 最上段は大日如来(バン)、右下が 宝幢如来(アー)、左下が 天鼓雷音如来アク)を表現しています。康永3年(1344年)の銘が刻まれており、 南北朝時代の板碑であることがわかります。
この、板碑は、本来は聖福寺の西門近くにあったといわれ、江戸時代に御笠川の東に移されました。 そして、現在の場所へは御笠川の河川改修工事に伴って2001年に移築されています。 (2002年3月 福岡市教育委員会)
松源寺
濡れ衣塚より国道3号線沿いに箱崎方面に200mほど行くと、国道3号線の反対側に 松源寺がある。このお寺の山号も「濡衣山」と言う。 が、濡れ衣塚との関連性は不明である。






