太閤道[唐津-名護屋] FORMER TAIKOU-DOU AVENUE
概要
文禄・慶長の役の日本軍の大陸への出撃拠点は肥前名護屋であった。全国の諸大名はこの街道もしくは、 海路にて名護屋に着陣したと思われる。
名護屋城跡については拙ページ名護屋城跡を参照の事。
地図
※地図中の赤・青色マーカをクリックすると、その地点の詳細な案内へのリンクが表示されます。
浄泰寺
浄泰寺は浄土宗の寺院で山号を清凉山と言う。
案内板によると初代唐津藩主寺沢志摩守の菩提書として天正2年(1574年)に開創されたとある。
浄泰寺と近松寺との中程に名護屋口跡があり、この南側に町奉行所・番所などがあった。 ここより名護屋城に向かう太閤道がはじまる。
近松寺
近松寺は臨済宗南禅寺派の寺院でで山号を瑞鳳山と言う。 以下に同寺のパンフレットに記載されている歴史を一部省略して記載する。
近松寺の歴史
創立は乾元元年(1302)。天文年間(1532年-1553年)岸岳城主波多三河守は、 博多聖福寺の湖心禅師の高徳を慕い、当時の堂宇を再建(唐津城中三ノ丸辺)し、 禅師を開祖として迎える。しかし天正2年(1574年)の兵火にあいその後荒廃する。
慶長元年(1596年)唐津領主及び長崎奉行の命を受けた寺澤公は、湖心禅師の 高弟耳峰禅師の道学兼備なるを聞き、外国通辞として招請するにおよび、 禅師の近松寺再興の意に願い、同3年、現在の地に再建され、寺田百石・山林を寺産に充て、 菩提寺として篤く帰依される。しかし第二代堅高公の逝去により寺澤家断絶し、当寺も一時荒廃する。 第4世遠室禅師は、徳川家光公に近松寺隆興を懇請さる。よって百石の御朱印を賜り旧観に復する。
その後歴代の城主は当寺に帰依されるが中でも文政元年(1818年)第6代藩主となられた小笠原公は、 寺田百石を寄進され、菩提寺として深く帰依される。
野元神社
未稿









