遠賀川より西側[底井野往還] SOKOINO-OOKAN ROADAT WEST SIDE OF ONGAGAWA RIVER
- 概要
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遠賀川より西側について記載する。
- 阿弥陀寺
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阿弥陀寺は西山浄土宗で山号を西向山という。境内の墓石はかなり古いものである。歴史を感じる。
- 熊鷹稲荷大神
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街道はここより右にカーブする。
- 底井野小学校
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小学校の建物には御茶屋があったという。
下の月瀬八幡宮の本殿内の絵馬に描かれている。
- 正覚寺前
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正覚寺は西山浄土宗で山号を小松山という。
正覚寺内で写真撮影していると お寺の関係者とみられる老夫婦に声をかけられ、正覚寺の前の古道の話、底井野小学校が昔お茶屋であったこと など熱心にお話をしていただいた。また弘法大師ゆかりの大根川の話もうかがった。有難うございました。(2010-07-31)
本堂左手に弘法大師を祀ってあるお堂がある。西山浄土宗なのに真言宗の開祖があるので不思議に思ったが, 上のお寺関係者の老夫婦のお話では昔は弘法大師は別格で宗派には関係なしに信仰されていたとのこと。
- 蓮光寺前
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蓮光寺前は浄土真宗本願寺派である。
- 月瀬八幡宮(猫城跡)
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月瀬天満宮前の案内板の内容をそのまま記す。
猫城跡(Site Of Neko Castle)
猫城は、室町時代に麻生氏の端城として築かれたといわれ、 その城跡には、現在、月瀬天満宮の社殿があります。
城跡の丘陵には、高さ約20メートルの円錐状で、すそ野には水濠の名残りがみられます。
山鹿城の麻生元重と 宗像大宮司氏貞は、 数度の合戦に及ぶも決着がつかず、天正6年1578、遠賀川の東は麻生領, 西は宗像領となります。 氏貞は、家臣吉田倫行に雑兵150余人をつけ、猫城に配属します。
天正8年5月、豊後の大友氏(立花雪道の説もあり)の指令を受けて、 鷹取城主毛利鎮実が攻め込みますが、 宗像勢は激戦の末、これを打ち破っています。 頂上からは、遥に宗像・鞍手。遠賀が一望され、要塞の地であったことが想像されます。
「猫城」の名の由来は、定かではありませんが、「猫が背を丸めた姿に見える」とか「敵が攻めて来れば高くなり、 攻め下るときは低くなり、まるで猫のようだ」との言い伝えがあります。 - 中間市教育委員会
- 砂原地蔵
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街道はここで赤間宿に向って直角に左折する。
砂原地蔵の由来を案内板の内容をそのまま記述する。案内板は手書きでかなり痛んでおり、所々判読できない箇所がある。
砂原地蔵
この付近一帯の底井野村は、遠賀平野に属する豊饒な農耕地帯であ■き■た■■が 江戸時代の三大飢饉といわれる享保・天明・天保大飢饉にはその度に多数の餓死者を出しています。 とくに享保17年には筑前国に餓死者10万人と記録にあり、郷土底井野でも多数の死者を出しています。
また、■昔の入■時代がら底井野の地で■■■ために明和、文化、天保、嘉永、明治と大洪水 の被害も甚だしく、その度に川西の全村の水没で多くの犠牲者をだしております。
こうした尊い犠牲者の霊を弔う施餓鬼法要が江戸時代より営まれましたが、明治19年の水害による 被害者20余の遺体が流れ着いたことを機会に全村人の協力でこの砂原に石地蔵を祀り今に菩提が弔われています。 - 中間ライオンズクラブ・中間郷土史会
- 庚申様
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庚申様境内の銀杏の木は見事である。秋に訪れてみてほしい。
- 十一面観音
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街道はここで赤間宿に向って90度左折する。
- 古月小学校前
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未稿
- 木月橋
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未稿
- 天神下の菩薩像前
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石像の横に「天明六(1786年)」の刻印が読み取れる。
- 倉坂橋(黒橋)
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ここから苦しヶ峠(荒五郎山)へ向かう登り坂である。
荒五郎山山頂には薬師院(天台宗)が伽藍を構えている。
- 苦しヶ峠入口
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場所が分かり辛いが、入り口の向かい側に鉄塔がある。夏場が草木が茂っていて入り口を判別できないかもしれません。
- 苦しヶ峠付近
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2009/11/15初めて足を運んだ。車の通った跡がある。単独行はやはり怖い。 街道の左側は主に竹林である。
2009-12-27 寒い中底井野側より苦しヶ峠を我が念仏2号にて完走。 イノシシなどの動物が出てこないか怖かった。 本当は人の死体などがあったらどうしようかと思った。 ほんの5分くらいの距離ではあるがずいぶん長く感じた。
- 苦しヶ峠出口
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写真(1)中央のじゃり道が出口である。
- お地蔵様
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お地蔵様の前の街道は綺麗に舗装されている。ここより数百メートルで赤間道との合流地点である六反田の交差点である。
- 六反田の街道
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未稿






































