内野宿[長崎街道] UCHINO STATION
概要

小倉屋 - 元禄の頃から現在地に居住した地主で両替商を営んでいたといわれ、伊能忠敬がこの地を測量したときその一行の内3名が宿泊。建物は明治13年新築。当家には土蔵に使われていた慶長元年の瓦が保存されているとのこと。 
内野宿案内図 - 宿場内の内野宿展示館前に掲示されている
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』
内野宿は、東西山に挟まれた南北のびる狭い平地にある。JR日豊本線と国道200号線にはさまれている。 ここでは、内野宿東構口から次の宿駅である山家宿までのルートについて記載する。
右の筑前國名所図会の配置とほぼ同じ街並み配置が残っている。 宿場内にはそれぞれの建物の前には案内板がこまめに設置されており訪れる人には親切である。
下に『筑前國続風土記』巻之12の内容を引用する。
○内野村
山谷の中にある村にして、飯塚より山家に通る驛家也。 民屋多し。
是より西、山をこえて、御笠郡山家の宿へ行く。 其間の坂を冷水越と云。
内野村むかしはなし。 慶長17年、長政公其家臣毛利但馬をして、此地を見そなはしめ、 初て、町を立させらる。
是より飯塚へ三里七町、御笠郡山家へニ里廿一町、御笠郡へ越す所の冷水嶺迄 一里十町あり。 根地嶽と云高山あり、竃門山につぎて高し。根地とは内の 社人のいへる號なり。 竃門山山伏の古傳には、根手嶽根手権現の云。 大根手権現とて、山上より少下に瓶一あり。 是を神體とす。昔は社あり。今はなし。 瓶のわたり一尺四五寸あり。
内野の谷の上に三箇山とて、山中に三の村あり。夜須郡に属す。 内野と同谷也。 内野より御笠郡山家に越る嶺より、 東の方下二町ばかり山間に、冷水出る所あり。其側に石佛 あり。是内野村の境内なり。是冷水有によりて、其嶺を 冷水越と云。
東構口
東構口は内野小学校のすぐ脇にある。写真のとおり当時の面影はほとんど残っていない。 街道脇にわずかに石組が残っているのみである。 写真の正面が冷水峠である。
えびす碑付近

えびす碑と太宰府天満宮米山越道の石碑 
えびす碑付近の街並。 - 西構口に向って撮影 
松屋の窓の拡大 - 凝った装飾がほどこされている当時の商人心意気を 
松屋 - 母屋は江戸後期の建築とのことである。 酒名を「松浦川」といい昭和初期まで酒造業を営んでいたとのことである。 
伊藤家 - 酒造業を営んでいた。建物は明治末期の建設とのこと
この付近が宿場の中心部で様々な遺構・建物が良く保存されている。
案内板によれば、道標「太宰府天満宮米山越道」は嘉永2年(1849)正月、 恵比寿碑は元禄13年(1700)創建、嘉永6年(1853)再建との事である。 内野宿の天満宮信仰の中、宿場の繁栄と旅人の安全を祈願したという。
ここの角を直角に冷水峠に向って右に曲り、日豊本線の踏切を渡り少し坂道を進むと、 この宿場建設に貢献した内野太郎左衛門の墓所である宗賢寺、さらに進むと大いちょうがある。
また、この道の先は太宰府天満宮への参詣道であったようである。
お茶屋跡
お茶屋跡は現在田んぼになっており、休耕田であろうか雑草が生えている。 建物の痕跡は無く、ただ案内板がポツンと設置されているのみである。
大いちょうは福岡県の文化財に指定されていて作者が今までみたいちょうの内で最大級である。 このいちょうもお茶屋の敷地内にあたると言う。
歴代藩主はこの近辺で猪などの狩をしたという。
建物の一部は飯塚市馬敷の西光寺に移築されているという。 ぜひお参りに行こうと思う。
西構口
西構口は当時の面影は何も残っていない。いよいよ長崎街道の最大の難所である冷水峠越えである。 ここを出てすぐ右手の老松神社に手を合わせ、 旅人は気を引き締めたことであろう。
老松神社
案内板によれば、宝治2年(1248)当地が太宰府神領のよかりから菅原道真公の神霊を勧請して古宮山(宗賢寺山)に創建。天正元年(1573)現在地(内野関屋)に遷る。
鳥居には天保2年(1831)の銘あり。
国道200号線との合流地点
街道はこの先のR200を横切りその先を右に曲がって進む。
新田バス停
ここより峠までの道が始まる。150mほど坂を登ると石畳が始まる。
バス停はR200を峠に向って右側にひっそりと設置されている。見逃しやすいので注意が必要。
首無し地蔵
首無し地蔵の祠は全面は杉林・背面には竹林でかこまれひっそりと鎮座されている。 その前には小川が流れ一枚岩で造られた石橋がかかっている。この石橋は
首無し地蔵の祠は全面は杉林・背面には竹林でかこまれひっそりと鎮座されている。 下に内野宿展示館で配布されているパンフレットの内容を引用する。
[民話 首なし地蔵]
昔悪者がこの峠で旅人を殺害した。 悪者は道端の地蔵に誰にも言うなという。 地蔵は「ワシは言わるがわれ言うな」という。 悪者は驚いて地蔵の首を叩き落として行方をくらました。 その後何年かして二人の旅人がここを通りかかる。 谷川の水で喉をうるおし、地蔵様を拝すると首がないのに驚く、 もう一人の男は悪者であった。 「わしは言わねどわれ言うな」のお地蔵様の言葉を忘れて、 その首のないわけについて、何年か前の仕業を自慢げに白状した。 話を聞いた男は、前にここで殺された長崎の人の血縁の者であった。 仇討が行われた。仏罰てきめんというが、仏は罰を与え給ねど身から出たさび、 自ら招いた報いというか、悪いことはできないものであると伝えられている。
祠の前の石橋はイギリスの初代駐日総領事オールコックがその著『大君の都』の中でここの景色を絶賛しているとの事である。 彼がここを長崎から品川への赴任の為通過したのは安政6年(1859)夏と思われる。
石畳
このあたりはかなりの急坂である。当時の旅人はかなり苦労したことであろう。 また、この道の保守作業も村人の仕事でありかなりの苦労があったとしのばれる。 石畳はかなり良く保存されている。
大根地神社前
ここが、三瀬越えの最高地点である。 ここからしばらく続く下り坂は道もある程度整備されていて、乗用車も通行可能である。
大根地本殿はこの鳥居のに向って左の林道を1kmほど登った山頂付近に鎮座している。 本殿脇には茶店も2軒あるが、平日に参拝したせいか神社も茶店も無人であった。 本殿脇に山頂に通じる山道があるが、無人の山頂で日暮れ近かった為、肝の小さい作者はその道を登る事ができなかった。 案内板によれば見晴らしの良い絶景の場所との事である。 この林道は乗用車も通行可能であるが、砂利道・コンクリート道などが続き路肩も危ないので 注意して参拝する必要がある。
『長崎街道 大里・小倉と筑前六宿』によれば、冷水越えのルートの着工は慶長8年(1603)。 その完成は慶長16年(1611)とのことである。 福岡藩が九州内の他の大名が福岡・博多を通過して本州との行き来することを嫌いこのルートを着工を開始した。 (黒田如水の案という)
内野宿・山家宿の両側から双方の分担で開発をしたとの事である。 ちなみに、内野宿は奉行:毛利但馬、代官:大野太郎左衛門。山家宿は奉行:桐山丹波、奉行:志方彦太夫とのことである。
大根地神社看板前
峠を越えて街道はここでR200と合流する。
梵字石
上西山の集落に鎮座している。
猿田彦
ここを降ると再びR200と交差する。
R200より分岐
ここでR200と別れて山道となる。
砂釜橋
ここよりしばらくの下り坂は、道がある程度整備されている。
R200
ここより街道はR200からそれて山道となる。道がある程度整備されている。
街道
ここより街道は舗装道路に入る。
次の宿場は山家宿である。






























