轟木宿[長崎街道] TODOROKI STATION
概要
今回()は初回の取材で、田代宿の取材の後に行ったため、じっくり観て回れなかった。 あまり詳しく記載できない。 次回はじっくり取材をしてこよう。
日子神社前の案内板の内容をそのまま記載する。
長崎街道・轟木宿
轟木宿は肥前鍋島藩の東端に位置する国境の宿場町で、 轟木川(別名番所川)を対馬藩との協会とし、 番所がもうけられきびしい検問を行っていました。
宿場町は上町・中町・下町・新町の4町から成り、 番所は上町に、幕府の布告・人馬の公定賃金などを書く制札は中町との角に、 人足・馬を用立てる人馬置床は下町に設けられていました。 旅籠・商店は中町・下町に多く、長崎屋・角屋・泉屋・柳屋など 13軒の旅籠が並んでいました。また、藩境であったため、藩主の宿泊する御茶屋も中町の東側に建てられていました。 新町には細工師・大工などが多く住み、職人町となっていました。
---- 鳥栖市教育委員会
宿場内では右図のような標識が道路に貼り付けられている。 始めて行く人には極めて親切である。作者も助かった。
日子神社
宿場内の街道はここで直角にカーブする。
ここには制札場があったというが、面影は残っていない。
本殿前の狛犬は嘉永6年の銘1853がある。
道標
ここは小さな三叉路になっており、街道は右側を中原宿に向かって進む。 この周辺は工場などが建て込んでおり当時の面影などは何も残っていない。
道標の脇の案内板の内容をそのまま引用する。
長崎街道・安良
安良は朝日山の南山麓にひろがる古くからある集落です。 朝日山は建武元年1334朝日一族によって山城が築かれています。 以来250年間城主は変わっても山路炉として機能していました。 また、古代においてもここに烽が置かれ、いつの時代にも幹道が通りの戦略的拠点として位置付けられていました。
安良は江戸時代も、長崎街道沿にあたり、"人家40軒ばかり茶屋多し"となります。 旅籠はなかったものの、鍋島藩主の参勤交代などで轟木宿に宿泊客が多い場合、 安良に分宿していたことが記録として残されています。
---鳥栖市教育委員会
安良公民館
ここから先は、街道がゴルフ場(ブリジストンCC)の中を進む。街道がボールよけのネットで被われており、その道を通ると妙な気持ちになる。 写真を撮影したかったが、車の通りが激しく、停止して撮影することができなかった。
村田の六地蔵
街道はこの少し前でR34の鳥栖市一本松交差点をまたぎ、少し進んだところに鎮座している。 文化5年1808に造られたという。
お地蔵様
お地蔵さまは、風雪にさらされて元の形がわからない。綺麗な花が手向けられていた。地元の方々の深い信仰心が感じられる。
ここからしばらくすると街道はR34と合流し、その先をしばらく行くと、いよいよ次の中原宿到着する。













