直方[長崎街道]  NOUGATA STATION

概要
直方町 図 其一
直方町 図 其一
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』
直方町 図 其二 多賀神社
直方町 図 其二 多賀神社
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』

直方の町中の街道は平成筑豊鉄道伊田線をジグザグに交差し、縫うように南下する。

直方は、福岡藩の支藩東蓮寺藩四万石の城下町として成立したが、後に本藩に還付され廃藩となった。1720年のことである。 その前までは長崎街道は遠賀川の対岸のルートを通っていた。

廃藩により町の存亡の危機に瀕した町年寄の庄野仁右衛門の藩への願いによって、長崎街道はこの町を通過するように付け替えられる。

以降、直方は城下町から宿舎はなく街道の人馬継立や飲食物の提供のみを行う町場に変わった。

町場は「間の宿(あいのしゅく)」とも呼ばれ、木屋瀬宿と飯塚宿の中継地としての役割を担っていた。

下に、『筑前國続風土記』巻13の内容を記す。(段落、ふりがな、西暦年号は作者が挿入した。)

直方(なふがた)

(さと)始は東蓮寺といへり。 新入村の境内なり。 此所に、そのかみ倉久村内山寺の末寺、東蓮寺 といふ寺ありし故、邑の名とす。 今は其寺なし。 延寶三年(1675)に改て直方と號す。 是は東蓮寺の名宜しからざる故、其あたりなる 小村の名をとりて名付らる。

元和九年(1623)、長政公捐館(えんくわん)の 前に遺命して、おほやけに申上、 遠賀、鞍手、嘉麻、三郡の内にて、四十三村 四萬石の地を分ちて、其末子東市正(ひがしのいちのつかさ)隆政[1]に譲り あたへらる。 在所は鞍手郡鷹取古城の邊、然るべきよし遺命 し給う。 寛永三年(1625)に忠之公の家臣、井上周防、吉田壹岐、 鞍手郡の内にて隆政の居宅に成べき地形を尋て、 楠橋(くすばし)、龍徳、下境など所々見そなはしけるが、 終に此所に邑を定め、屋敷をかまへ、家作りをなす。 家老諸士より以下、其四邊に宅をかまへて移りぬ。 工商も亦おほく集り、町をたて、編戸の民となり、 各其稼業をいとなむ。 是より一の廣邑となる。

然るに隆政寛永十六年(1639)、病をうけて棄世したまひ、子息なし。 忠之公の二男之勝其あとをつげり。 東市政に任ず。 之勝寛文三年(1663)に卒したまふ。 直方四萬石の地は、元来長政公に給りし本領の内なれば、 其後公命有て福岡に返したまわりぬ。

元禄元年(1688)、國主光之公台命を請て、次男黒田長淸公に新田五萬石の 地を分ち與へ、直方に居らしむ。 同五年(1693)、長淸おほやけに申上、舊宅の地を改め、妙見山に新宅を たてゝ住給ふ。

前に堀をほり、大堤を築て堅とす。 館の東、林樹欝蒼として、喬木雲を凌ぎて生茂れり。 木のもとより道一筋ありて、南にめぐり北に轉じ、五六町をへて 竹の林に至り、柴門南に向かひて一境あり。草ふける屋あり。 静養のところとし給ふ。 西のつづら折を登りて、東をのぞめば、本郡の高山數峯つらなり、 北は遠賀の海濱、蘆屋洋まで遠く見ゆ。 光之公綱政公も、かつて爰、ここ()に来遊し給ふ。

むかし、此所に在し妙見の社は、北の山に移さる。 元禄年中(1688-1703)、社人靑山祝部が願により、いにしへの神名に かへりて、多賀大明神と改む。 其額は油小路大納言高貞卿の筆なり。

その後、長清の嫡子・長好は福岡藩5代藩主・宣政に子がなかったため養嗣子(のちの福岡藩6代藩主・継高)となった。 享保5年(1720年)長清が没し、長好の他に子が無かったため廃藩となり、所領は福岡藩に還付された。

[1]隆政:一般には黒田高政と呼ばれ、長政の第4子である。

大銀杏
  • 大銀杏
    大銀杏 

街道はこのすぐ先を右に進み、直方に入る。


頓野口跡
未稿
円徳寺付近
  • 円徳寺
    円徳寺 

街道はここで直角に左に曲がる。 円徳寺は浄土真宗本願寺派のお寺で山号を「壽光山」と言う。


新町北口跡
  • 新町北口より飯塚側に50mほど進んだところの街道 - 飯塚宿に向かって撮影
    新町北口より飯塚側に50mほど進んだところの街道 - 飯塚宿に向かって撮影 

案内板の内容を引用する。

新町北口跡と御殿口地蔵

ここは直方が城下町であったころの、町人の居住地と武家屋敷の境界である。 当時、新町の北橋(現・新町二丁目)には東西方向の水源があり、 これを境として南が町人の住む新町、北側が武家屋敷になっていた。

文化9年(1812)に三奈木黒田家の某がこの地を巡見した時の記録 「廻郡日記(かいぐんにっき)」によれば、十二月五日に 「直方新町紀伊国屋小平宅にて昼休」「新町口江感田村武(左)衛門、出迎え」 とある。

「紀伊国屋」は、現在の新町二丁目6-12の旧家中村家と思われる。 同家の屋号は紀伊国屋で位置は城下町に描いた「直方惣郭図(そうかくず)」 の新町町家の北端にあたる。 ここに感田村からの向えが来たことになる。

現在でも、新町二丁目3-13の花由生花店前が中村家の北に接して東にのびているが、 この水路は「惣郭図」の水濠と一致する。 「新町口」はすなわち紀伊国屋の位置していたところである。

濠のすぐ北側、家老伊丹九郎左衛門屋敷の東南角に鎮座していた地蔵尊を 「御殿口地蔵」と呼んだのは、ここが御館山にあった藩主の御殿の入り口に あたることに由来する。 この地蔵尊は、現在新町三区公民館前に移され、今なお地元の崇敬を集めている。

--平成17年6月25日 直方市教育委員会


尾崎口跡
  • 尾崎口付近の街道 - 飯塚宿に向かって撮影
    尾崎口付近の街道 - 飯塚宿に向かって撮影 
  • 尾崎口付近の街道 - 飯塚宿に向かって撮影
    尾崎口付近の街道 - 飯塚宿に向かって撮影 

海道の両サイドは、白壁の商家が立ち並んでいる。 付近の案内板の内容をそのまま引用する。

尾崎口御門跡

直方が黒田支藩の城下町であった時代(1623-1720)の南の出入口跡。 上流からの洪水にそなえて西の山手からのびた土塁(堤防)でかため、その裾には 竹矢来(たけやらい)[2]を巡らせていた。 土塁の痕跡は、西側のJR無人踏切に続く道として残っている。

さらに、門の東から袖形(そでがた)にのびた土塁が城郭の出入口構造である 「外桝形(そとますがた)」を形勢し、厳重な構造をしていた。 このため、当時の旅行者の記録に「城下の大手口」と書いたものがある。

正徳3年(1713)の閏5月10日の深夜、江戸に向っていた二人の薩摩藩士が小竹町 南良津(ならず)の土手で五人組の盗賊におそわれた事件「長薮騒動(ながやぶそうどう)」のとき、 負傷した内田仲左衛門(うちだちゅうざえもん)はこの尾崎口御門にたどりつき 事件を急報した。

直方藩の廃藩後には街道のつけ替えがおこなわれ、ここ尾崎口は小竹・飯塚方面に 通じる長崎街道が通過するようになった。

--平成13年12日8日 直方市教育委員会

[2]竹矢来:このページを参照のこと。矢来垣 垣根いろいろ


貴船神社
  • 貴船神社の鳥居
    貴船神社の鳥居 
  • 貴船神社前の街道 - 飯塚宿に向かって撮影
    貴船神社前の街道 - 飯塚宿に向かって撮影 

街道はここを飯塚宿に向かって大きく右にカーブする。


岩鼻
  • 踏切 - 飯塚宿に向かって撮影
    踏切 - 飯塚宿に向かって撮影 
  • 踏切 - 直方宿に向かって撮影
    踏切 - 直方宿に向かって撮影 

踏切を渡り、一旦国道200号線に出る。

1720年、直方藩が福岡藩に還付されたとき、その家臣団も福岡に退去。町は存亡の危機に瀕していた。このとき 町年寄の庄野仁右衛門は、町の振興策として往還のつけ替えを藩に願いでた。 それまでは直方・小竹の間には川に突き出た岩山(岩鼻の場所)が通行を妨げていた。 元文5年(1736)仁右衛門らは難工事のすえこれを開削、長崎街道を町中に引き入れた。 以降、直方の町は街道の町場として発展する。


JR勝野駅北
  • JR勝野駅の北側の街道 - 飯塚宿に向かって撮影
    JR勝野駅の北側の街道 - 飯塚宿に向かって撮影 

街道はJR勝野駅の北側を南下する。写真の左側が勝野駅である。周辺はのどかな田園地帯である。


庚申塔
  • 猿田彦大神・庚申塔
    猿田彦大神・庚申塔 
  • 長崎街道跡の石碑(画面中央付近のブロック塀の右端) - 飯塚宿に向かって撮影
    長崎街道跡の石碑(画面中央付近のブロック塀の右端) - 飯塚宿に向かって撮影 

猿田彦大神・庚申塔は街道脇に鎮座。地元の人々の信仰心の厚さであろう、花が手向けられている。 そこより10mほど飯塚よりの道端には長崎街道跡の真新しい石碑が建てられている。

街道はこの先を飯塚宿に向って直角に右折する。


南良津(ならつ)の唐戸
  • 水門
    水門 
  • 水門全景 - 上のガードレール左右方向が街道
    水門全景 - 上のガードレール左右方向が街道 
  • 水門の上にかかる橋 - 飯塚宿に向かって撮影
    水門の上にかかる橋 - 飯塚宿に向かって撮影 

水門はの飯塚宿に向って橋の手前左側に下り口がありそこを降るとたどりつける。見逃しやすいので注意が必要。

街道はこの先を飯塚宿に向ってJR筑豊本線をまたいで国道200号線に合流するはずであるが、 そこは田畑となっておりどこが街道なのかは現在作者はわからない。

下に水門脇の案内板の内容をそのまま記す。

南良津唐戸(ならつからと)

昔から遠賀川は雨期になると洪水になり、 流域の住民は永くその被害に苦しんでいました。 これに心をいためた黒田藩は、寛永6年(1629)に堤防を築く工事をはじめました。

この南良津唐戸は、 家老 栗山大膳(くりやまだいぜん)によって 造られたと伝えられています。

古老の話によると、この唐戸の川上に面した中央の石柱は、 回転する仕組にできていて、洪水のさいには流れ下る、ちり、あくたなどをうまく下流に流すことができいたといいます。

この唐戸の上の街道は江戸時代の幹線道路で、参勤交代の大名や長崎奉行、 オランダ使節などの行列も往来していました。


筑豊本線の小竹駅前
  • 小竹駅 - 飯塚宿に向かって撮影
    小竹駅 - 飯塚宿に向かって撮影 

小竹駅の前は国道200号線で車の流れが激しい。


実相寺前
  • 実相寺前の街道(右手が実相寺) - 飯塚宿に向かって撮影
    実相寺前の街道(右手が実相寺) - 飯塚宿に向かって撮影 
  •             龍屋寺           
                龍屋寺            
  • 龍屋寺前の白壁造りの商家
    龍屋寺前の白壁造りの商家 
  • 龍屋寺前の街道
    龍屋寺前の街道 

実相寺龍屋寺(りゅうおくじ)と街道の右手にお寺が続く。


貴船神社
  • 貴船神社
    貴船神社 
  • 貴船神社前の街道 - 飯塚宿に向かって撮影
    貴船神社前の街道 - 飯塚宿に向かって撮影 
  • 貴船神社前の猿田彦神
    貴船神社前の猿田彦神 

貴船神社境内には右写真のような奇妙な形をした石に様々な神様の名前が刻まれた石・岩が多数ある。 作者ははじめて見た。


龍徳屋酒店
  • 龍徳屋酒店
    龍徳屋酒店 
  • 龍徳屋酒店の街道 - 飯塚宿に向かって撮影
    龍徳屋酒店の街道 - 飯塚宿に向かって撮影 

正徳3年1713、この手前のJR勝野駅と、このJR小竹駅の中間地点であの長薮騒動が起きた。 (このあたりは昔は広大な竹薮であったと言う。) その被害者の看護をしたのがこの龍徳屋である。

詳細な顛末は『大里・小倉と筑前六宿長崎街道』の内容を引用する。

正徳3年1713閏5月10日深夜、江戸へ向かう荷駄が竹薮土手で襲われた。 護送する薩摩藩士は内田仲左衛門(30歳)と海江田次郎兵衛(25歳)。 荷を馬に乗せ、その上に乗る乗掛け姿で、二頭の馬にはそれぞれ馬子がついていた。 連日の強行軍のため馬上でうたた寝しつつ進むうちに、盗賊が仲左衛門の刀を奪い、荷を渡せと迫った。 仲左衛門は盗賊5人を相手に脇差しで応戦、3人を斬り2人を追い払ったが自身も負傷した。 この間に次郎兵衛は荷を木屋瀬にとどけて事なきを得た。 仲左衛門は事件を直方城下に急報したが、門番は深夜を理由に開門を拒否。 やむなく小竹に引き返し、町の有力商人龍徳屋兵五郎宅で手厚い看護をうけた。 翌日事件を知った直方藩は仰天、犯人の糾明と関係の修復に奔走することになる。

(中略)

この年は赤穂浪士の討入りから12年の後。世は太平で武士が斬り合うことなど稀であった時代だけに、 事件は街道に大きな衝撃をあたえ、同時に薩摩藩士の武勇が賞賛された。 島津家はこれを吉例として、以降龍徳屋を小休処とした。 のち肥前鍋島藩などもこれにならったため、事件は小竹の町が宿駅として発展する契機になった。

以降、内田家と龍徳屋原田家の友誼は子孫に引きつがれ、明治に至った。

(後略)


小竹地蔵尊
  • 小竹地蔵尊
    小竹地蔵尊 
  • 鳥居脇の庚申尊天(天保三年(1832)の銘あり)
    鳥居脇の庚申尊天(天保三年(1832)の銘あり) 

ここにも貴船神社境内にと同じような奇岩に刻まれた庚申尊天が鎮座している。


郡境石
  • 郡境石
    郡境石 
  • 郡境石前の街道 - 飯塚宿に向かって撮影
    郡境石前の街道 - 飯塚宿に向かって撮影 

前面に「是従北鞍手郡」、側面に「勝野村」の文字。


目尾(しゃかのお)交差点
  • 目尾交差点 - 飯塚宿に向かって撮影
    目尾交差点 - 飯塚宿に向かって撮影 

街道はここでR200をまたごす。目尾は"しゃかのお"と読む。 写真左右方向がR200。


高聖奥の院
  • 門
    門 
  • 内部
    内部 

珍しい赤煉瓦づくりである。


白壁造りの商家
  • 白壁造りの商家 - 飯塚宿に向かって撮影
    白壁造りの商家 - 飯塚宿に向かって撮影 

伊藤伝衛門邸の少し前の街道である。


伊藤伝衛門邸
  • 門
    門 
  • 門前の街道 - 飯塚宿に向かって撮影
    門前の街道 - 飯塚宿に向かって撮影 

街道はこの先のR200沿いに内野宿に向かう。 この付近には白壁造りの商家が点在する。


竹園寺(ちくおんじ)
  • 竹園寺前の街道 - 飯塚宿に向かって撮影
    竹園寺前の街道 - 飯塚宿に向かって撮影 

竹園寺は山号を松風山と号し、浄土宗に寺院である。 境内の案内板によれば、安政三年11月23日火災により書類喪失につき由緒などは不明との亊。

竹園寺の街道をはさんで反対側にはかなり年代をおびた商家の建物が現存している。


白藤醤油醸造元前
  • 白藤醤油醸造元前(右手が白藤醤油) - 飯塚宿に向かって撮影
    白藤醤油醸造元前(右手が白藤醤油) - 飯塚宿に向かって撮影 
  • 白藤醤油醸造元 - かなりの年代を感じる
    白藤醤油醸造元 - かなりの年代を感じる 

このあたりはゆるいカーブが続く。


オランダ屋敷跡
  • オランダ屋敷跡の石碑
    オランダ屋敷跡の石碑 

石碑意外に当時の建物跡などはなにも現存していないようである。 石碑の側面に記載された内容を引用する。

江戸時代に長崎街道の飯塚宿が栄えた頃、オランダ人が 宿泊した場所だと言われています。江戸に参府するたまに、 飯塚に宿泊した人にオランダ医師のケンペルやシーボルトなどがいます。


観音寺前
  • 本堂
    本堂 

観音寺は、高野山真言宗の寺院でその境内も本堂・太子堂他の建物も多い。 お寺のページにそのうちに掲載しようと思っている。


納祖八幡宮(のうそはちまんぐう)前[嚢祖八幡宮]
  • 本殿
    本殿 
  • 天満宮前の街道 - 飯塚宿に向かって撮影
    天満宮前の街道 - 飯塚宿に向かって撮影 
  • 寳月樓跡の石碑(文人墨家清遊の地と書いてある) - 納祖の街道をはさんで反対側にある。
    寳月樓跡の石碑(文人墨家清遊の地と書いてある) - 納祖の街道をはさんで反対側にある。 

社伝では神功皇后が三韓征伐からの帰途、納祖の森に祭壇を設けて天神地祇を祀り、長年つき従った九州の臣たちと別れを惜しんだと伝えられる。 このとき、人々が「またいつか尊顔を拝し奉らん」と口々に言い、この「いつか」が「飯塚」の名の由来であるという。 その跡に作られたのが当社であるという。創建年代は不詳であるが、延文4年(1359年)には社殿が建立されていた。

納祖八幡宮の鳥居より街道をはさんで寳月樓跡の石碑の石碑がある。 九州情報大学 進藤 康子氏の論文(大隈言道自筆資料『自詠集中抄』(http://ci.nii.ac.jp/naid/110007045536)によれば、 飯塚での歌会指導の折の大熊言道(ことみち)(1797-1876)の定宿であり。 言道を指導者として招いた古川直道、青柳直雄、そして、門下生筆頭の小林重治らが一緒に舟に乗り込み、風雅を楽しんだ場所であったようである。 宝月楼と納祖神社の間には、遠賀川からの水をめぐらせて舟が横付けできたとのこと。 また、亀井南冥(かめいなんめい)もたびたび訪れていたようである。

納祖八幡宮の先は、ほどなく飯塚宿の東構口である。