中原宿[長崎街道] NAKABARU STATION
概要
ここでは中原宿より次の神埼宿の手前までを記載する。
案内板の内容をそのまま記載する。
みやき町 長崎街道ものがたり3長崎街道・中原宿
中原宿の始まりははっきりとは分かっていませんが、正保3年1646に幕府に提出された「正保絵図」には宿を示す記号があることから、このころには宿として成立していたと見られます。 また、元禄14年1701に幕府にていしゅつされた「元禄絵図」には中原村の記述と宿を示す記号があります。 中原村は鍋島藩の親類筆頭各にあたる白石鍋島家の知行地となっており、 中原宿は長崎街道の本宿(公的な宿)でしたが、鳥栖の驫木宿と神埼の神埼宿の間の宿であったため、 規模は小さかったようです。
中原宿には6軒の旅籠があり、道の北側には東から泉屋・長崎屋・桜屋が, 、南側には東から松坂屋・大阪屋・岡崎屋がありました。 看板の左手にある岡崎屋の2階の手すりには「中原驛岡崎屋御定宿」の透かし彫りが残されています。
中原屋に宿泊した著名人には、洋画家の司馬江漢(天明8年1788)、 幕府測量方,そくりょうがた)の伊能忠敬(文明9年1812)、 思想家の吉田松陰(嘉永3年1850)がいます。 オランダ商館の医師シーボルトは中原宿について「われわれが休んだ中原の村で私は生垣がみんなムメサキウツギ[1]なのを見た。 おそらく日本で最も美しい潅木のひとつであろう」と記しています。 現在、ウツギの木は祇園社の前に植えられています。
このほかにも江戸と長崎を往復したときのことを旅行記に記している人は多く、その日記を読むと当時の日本の風景が伝わってきます。
---みやき町教育委員会
[1]メサキウツギ:どうやらウメサキウツギのことのようである。ムメサキウツギの件 | 佐賀の植物と自然を参照のこと。
道標(長崎街道中原宿入口)
道標は神埼宿に向かって左側に立っている。
恵比寿像
ここは小さな三叉路になっており、街道は右側を神埼宿に向かって進む。 恵比寿像の前には花が飾ってある。
祇園社
祇園社前の案内板の内容をそのまま記載する。
みやき町 長崎街道ものがたり4「東の木戸口と祇園社」
この祇園社周辺は、長崎街道の中原宿の東側の出入口付近にあたりますが、その当時の景色を偲ばせる資料の一つとして 大田南畝の「小春紀行」があります。 大田南畝は文化元年1804に長崎奉行下役として奉行とともに長崎に下り、 文化2年180510月10日に長崎を出立して江戸に帰っています。 その帰路の紀行が「小春紀行」です。 その紀行文の一部を紹介します。 「(中略)・・・左に祇園の社あり、木戸を出て砂川をわたりて松林を行く、左に石表ありて 自是東養父郡 自是西三根郡と志るせり。」
この資料から、由緒は判明していないが祇園社が少なくともこの時には存在していたことや、祇園社の近くに 現在の国道34号線に合流するあたりに三根郡と養父郡との郡境を示す石柱があったことなどがわかります。 また、尾張商人吉田重房(菱屋平七も 「筑紫紀行」に「(中略)・・・出口に小川あり価値("徒歩"の誤り?)よりわたる。少し坂を上りて四五丁は東ハ養父郡西ハ三根郡といふ境のしるしあり、 此あたり小松原中の山道なり。」と記しています。
他には当時を偲ばせるものとして、山の内川を渡って少し登ったところに三叉路があり、その入り口に二対の灯篭が建てられています。 そこは白石神社の参道の入口となって、中原宿は白石鍋島家の管轄下にあったことを示す一例と言えます。
また祇園社の西脇に小さな水路が流れています。これは「中原水道」と呼ばれ、 江戸時代初期に治水・利水の神様とも言われた鍋島藩家臣成富兵庫茂安公が 寒水川の東側の田畑と中原宿のために造った用水路です。
街並みとしては中原宿は、残念なことに明治18年18858月14日に大火で大部分が消失してしまいました。 全80戸中77戸を飲み込んだ大火災だったようです。
---みやき町教育委員会
中島茶屋と西の木戸の案内板
案内板の内容をそのまま記載する。
みやき町 長崎街道ものがたり2「中島茶屋と西の木戸」
現在、寒水川も架かっている橋を六ノ坪橋と呼びます。 ◯◯の坪という言い方は、古代の条里制の呼び方の名残です。 橋を渡るとすぐ三叉路になりますが、南側の細い道が当時の長崎街道です。 街道に入ったところの集落を中島と呼びます。
享和2年1802にここを通った尾張の商人吉田重房(菱屋平七)は、 「川を渡れば中島村、人家10軒ばかり茶屋あり」と記しています。
茶屋は旅行者に対して簡単な食事を提供するところで、当時貴重品だった白飯に焼き味噌や梅干、ガニ漬け、塩物などが出されていました。 このような食事のほかにもうどんやそば切りなどを出すところもあり、中島茶屋でも同じような食事が出されていたと思われます。 中原宿の中には茶屋がなかったため、このあたりで食事をとる人は中島茶屋を利用していました。
茶屋を抜け、坂道を登ったところに中原宿の西の木戸がありました。 寛永3年1850に中原宿に泊まった吉田松陰の記述によると、道路の左右から袖のように石垣が突き出て道幅を狭めており、 普段は門がなく、何か非常事態が起きたときに門をつけるような形だったようです。 木戸をくぐればいよいよ中原宿です。
---みやき町教育委員会
夜泣き地蔵尊
街道脇にひっそりと鎮座している。
祇園神社
鳥居・狛犬に天明41784の銘がある。
東寒水交差点
白壁の商家が見える。
子供守り地蔵尊
地蔵尊裏側には多数の石像がある。
恵比寿像
この恵比寿像にも花が飾ってある。
長崎街道道標
街道はここでふたたびR34と合流する。
天満宮
狛犬のお顔がユーモラスである。
祇園社
街道はここで左に球カーブする。このあたりも車の往来が激しい。
祇園社の灯篭には珍しいことに狛犬が乗っている。対面には綺麗なはなが供えられた恵比寿像が鎮座している。
恵比寿像
未稿
古い商家
未稿
田手神社
未稿
ひのはしら一里塚
この一里塚をすぎるとすぐに次の神埼宿である。 一里塚前の案内板の内容を下記に記す。
神埼市史跡ひのはしら一里塚
(前略)
現在長崎街道沿線には当時の築山を残す一里塚は残されておらず、この「ひのはしら一里塚」が唯一の築山をのこすものです。
「ひのはしら一里塚」に燗する記録は『御国中所々道法帳』に 「壱里山ひのはしらに有り」とあり、 また、「壱里山女達原村に有り」、「壱里山 本告牟田に有り」と記され、 このひのはしらの地と、東は目達原に西は本告牟田に一里塚があったことが分かります。
また、寛文5年1665の『肥前国古蹟集』には 「神埼縄手の火の柱の地蔵菩薩は石仏なり、霊験あらたにましまして、立願に入り豆をこのみ給う。 亦請願成就のためには人々土を高く集め御像をつき、篭り奉り事よろこび給う。 火の柱は高さ3間余にして広さ20畳の小塚なり。 背振弁才天に丈くらべた給わんとして、土を畳むることを悦び給う。 火の柱と云事は櫛田宮の赤木の鳥居此処にありければいう。」 とあり、一里塚の頂上のイボ地蔵が祀られ、非常に高い築山であったこと、 ひのはしらの地名はここに赤木の鳥居があったことに由来することがわかります。
現在のひのはしら一里塚は、これらの記録に位置・規模ともに合致しており、他の築の一里塚が消滅している現在、 頂部に祀られた「イボ地蔵」信仰により当時の規模・景観がそのまま残されたものと考えられます。
(後略) --- 平成19年2月28日 神埼市教育委員会
次の宿場は神埼宿である。










































