黒崎宿[長崎街道] KUROSAKI STATION
概要
黒崎宿[長崎街道]は長崎街道の大里・小倉に続く宿場町であった。 また、洞海湾の入江を利用しここより海路で本州に交通する拠点でもあった。
右の『筑前名所図会』には当時の黒崎宿の様子が洞海湾側から良く描かれている。東構口、西構口も 現在とほぼ同じ位置に描かれている。
黒崎宿[長崎街道]には城山(道伯山)があり、その昔城があったが、一国一城令により廃却された。 城山山頂は、現在は公園となっており当時のおもかげは、わずかに石垣を残すのみとなっている。
『筑前國続風土記』巻之4 遠賀郡 下の記載内容をほぼそのまま引用する。 ただし、段落、注釈は作者が加筆した。
○黒崎
此地は本州の東北の端に在て、豊前小倉に近き往来の宿驛なれば、 関所を置て非常をいましめ、婦女は券契なくして他国へ通る事を許さず。
黒崎の古城は藤田にあり。 此城は長政公入国の後、豊前境の守御のため、築せられ、家臣井上周防之房[1]に二万石の 采地[2]を賜り。 當郡のことを司らしめて、此城を置る。
此時までは此町を黒崎とは称せず。 其比此城山の南の下に、農人の宅一区あり。 其所を黒崎と云。 是によりて城の名を黒崎と名付けるとかや。 周防此所に在城し、其家人等多く此所に宅をしめ、商売も集りて藤田、田町の南町たてり。 是よりして此所の町の號も、城の名によりて黒崎と云。
熊手町には、むかし毎月市たつける故、町の西を下市と云。 東を上市[3]と云。 延喜式、筑前國驛程の部に、浪崎と云所あり。 いにしへより此邉の町を熊手と號す。
隈崎は即此所なるが、此城元和元年(1615)に台命有りて、一國一城に成りし時破却せらる。
またむかしは大阪往来の渡海船、豊前小倉のみに在て、當國他國より上京の人、 皆小倉に行て船をかりてのれり。 近年[4]は黒崎にも亦渡海船あまた出来、此所より船にのりて上下する者多し。 其舟入は黒崎の城あとの西にあり。
[1]井上周防之房:黒田二十四騎の一人。遠賀郡の龍昌寺 に墓所がある。穴生の弘善寺には夫人と娘の墓所がある。
[2]采地:領地。知行所。
[3]今の熊手銀店街として栄えている。
[4]貝原益軒が『筑前國続風土記』を編纂した1688年-1703年ころか?
ここでは黒崎宿[長崎街道]より次の木屋瀬宿までのポイントを順を追って記述する。
東構口跡[黒崎宿]
天和元年(1615年)に黒崎城が廃されたときにその南側の堀を埋め立てて、この構口が開かれた。 西構口と同様に、当時ここには、3~4人の役人が昼夜交代で通行人のチェックをしていた。
東構口より海側に300mほど行ったところに五卿上陸地跡の案内板がある。 五卿上陸地の碑の案内板の内容をそのまま記す。
文久3年(1863年)、政変により公武合体派が優勢となり、攘夷派の 公卿三条実美ら7人は、京都を 追われ長州へ逃れました。世に七卿落といわれた 事件です。
その後5人になった公卿は、第一次長州征討の結果、太宰府へ配流 と決まり、五卿は元治2年(1856年)1月15日彦島をたち、黒崎湊 に上陸しました。碑はもと100mほど西にありました。
五卿は_三条実美、三条西季知、東久世通禧、 壬生基修、四条隆謌です。 - 北九州市教育委員会
碑の元あったとされる場所は現在は工場の敷地内となっている。
碑のある場所より50mほど北には今も黒崎港がある。 黒崎埠頭の写真の右前方に若戸大橋が写っている。
御茶屋跡[黒崎宿]
御茶野は、藩主が泊まる場所であった。
桜屋跡[黒崎宿]
未稿人馬継所跡[黒崎宿]
未稿代官所・郡屋跡[黒崎宿]
近年黒崎は新日鉄八幡製鉄所はじめ、様々な工場の城下町として栄えたが、最近は 八幡製鉄所の溶鉱炉の大部分が他県に移転し、その為もあってかなり住民の老齢化 がかなり進んでいる。 JR黒崎駅の前を国道3号線が走り、交通量も多い。八幡区の中心地である。 黒崎宿[長崎街道]の歴史については、案内板の記述に譲る。
黒崎宿跡
黒崎はかつて長崎街道東橋の宿駅として、江戸時代には福岡と小倉両藩の境界にあり、 福岡藩では唯一の上方への渡航船(乗合貨客船)が発着する港をもつ 宿場町でした。九州ののど元にあるために、対馬と五島を除く九州西半の全大名や、 多くの旅人がこの宿場を利用しました。江戸時代後半には、これら諸藩の御用達や 定宿も設けられました。
宿内には、藩主の別館としての御茶屋(本陣)や町茶屋(脇本陣)が 設けられていました。 また、宿駅の機関である人馬継所,行政上の施設である 制札場,関番所,郡家, 代官所などが完備され、一般の旅籠屋(旅館)や商店も軒を並べていました。
このほか非常事態に備えて、御立退所(火災時の避難所)や 御除道(伝染病の発生時に宿内の迂回をする道)が設けられて いました。
私事ではあるが、作者が子供のころ(昭和30-40年)は家族とたまに黒崎街にでかけるのが 楽しみであった。また、作者の父の菩提寺妙心寺もここにある。 作者は、不良信者の為年2~3回程度しか参拝しない。
興玉神
興玉神は商店街の通りに面して鎮座されている。地元の人々の手でよく手入れが行き届いている。
西構口跡[黒崎宿]
今は、構口の痕跡は何もない。
乱橋[黒崎宿]
街道はここで木屋瀬宿に向って左にカーブする。
西方へ向う旅人はここで黒崎宿に別れを告げ、次の休憩所である立場茶屋銀杏屋、あるいは木屋瀬宿へと向った。ここから立場茶屋銀杏屋までは徐々に上り坂である。
菅原町
近年、北九州市が公園として整備した。ここらら約300m松並木が緩やかな上り坂として続く。
松並木入り口の脇に北九州市の設置した案内板がある。以下に原文そのままを記す。
曲里の松並木(昭和46・2・21指定)
「徳川家康による天下統一がなると、幕府は道中奉行の直轄下におく重要道路として 東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の五街道を設けた。
五街道に準じる街道は脇街道または脇往環と呼んだが北九州市内を通っていた 長崎街道もその脇街道の一つであった。
この長崎街道は小倉を起点とし、鎖国時代ただ一つ外国に向かって開いていた 日本の窓、長崎に通じる重要な道路として五街道同様に重要視されていた。 街道筋の黒崎・木屋瀬(八幡西区), 飯塚(飯塚市)・ 内野(筑穂市)・ 山家・原田(筑紫野市)の六宿は 筑前六宿と呼ばれ、宿場町として栄えた歴史を もっている。
江戸時代の狂歌師大田南畝は「坂を降るに 赤土の岸あり。松の並木の中をゆくゆく坂を上り下りて 又坂を下りゆけば、左に黒崎の内海(洞海湾)を見ゆ。」とその 紀行文「小春紀行」に、このあたりを描写 している。この松並木は幕府が全国の街道に松や杉を植樹させて 名残りで、黒崎から木屋瀬にかけて昭和20年(1945年)ころまでは 多くの松を残していたが、今はわずかにこのあたりが昔日の 長崎街道の面影をとどめているのみである。
なお、指定範囲は旧街道緑地の一部(幅20~30m,長さ310m, 面積8,000平方m)である。(北九州市)」
曲里
作者が子供のころには三菱化成の社宅が多くあった。 ここに程近いところに作者が2年生まで通った、熊西小学校がある。
幸神
"幸神"。おめでたい地名である。 名前の由来は分からない。 幸神大明神の中に由緒を書いた木製の板があったが、墨でかかれており 判読不能な箇所があったり、作者の国語力の無さの為、解読を断念した。
幸神大明神の道路をはさんで反対側には作者が子供の頃には相撲場があり、 たしか、夏に少年相撲大会が毎年開催されていた。 今は相撲場の跡らしき広場が残るのみである。
一里塚 - 幸の神
案内板によれば、この一里塚の小倉側の一里塚は前田村、長崎側は小嶺村にあったとある。 小嶺の一里塚跡は下で確認している。 また、長崎街道開通以前の古道(尾倉→平野→川頭→鳴水→椿山荘→ここ) と合流していたという。
この一里塚の前の通りは、作者の小学生(黒畑小学校)時代の通学路であった。
古街道碑
街道はこの坂を登り国道200号線と合流する。
割子川橋
割子川の町は、作者が子供のころ(1960年ころ)は黒崎につぐ賑わいであった。
自転車屋・豆腐屋・酒屋・牛乳屋・薬屋・写真屋などがあった。
上津役小学校前
この地点は手前の割子川から少し上り坂となり、次の涼天満宮に向かう。
涼天満宮
案内板(北九州市教育委員会)の内容を抜粋する。
神社前の道路が、旧長崎街道である。境内にあった大松の下で旅人が休憩 したので「夢想の松」、「涼み松」と呼ばれている。 今では、その松は枯れてなくなっている。 つぎのような言い伝えが残っている。
正徳年間(1711~1716)にある年、長崎の熊部新治郎という人が所用で京都に 上る途中、ここで休憩し、松の枝にお金の入った荷物を掛けたことを忘 れ立ち去ったってしまった。翌年新治郎が帰郷の時、再び立ち寄ったところ 、荷物がそのまま残っていた。新治郎は神のおかげと感謝し、石鳥居寄進した。 このことからこの松の木を「かね掛けの松」ともいうようになった。
地蔵菩薩下
地蔵菩薩は街道の木屋瀬に向かって左側の石段を少し登ったところにある。 よく見ていないと見逃してしまう。
蛭子神社前
蛭子神社の先には右手に西法寺がある。西法寺の案内板には元禄10年(1697年)創建とある。 2009/10/4にお参りに行ったが、本堂が改築中で写真撮影はできなかった。
小嶺 - 一里塚
国道200号線西鉄バスの小嶺バス停すぐ。黒崎側から右側。 よく探さないと見逃します。
案内板によれば、この次の一里塚は茶屋の原とある。 また、この先に石坂という急坂があったため、 両者の距離は一里より短く設定されていたという。
立場茶屋銀杏屋
国道200号線を北に進み、ここで国道から右にそれる。 銀杏屋は国道より坂道を200mほど登ったところにある。
案内板によればここは、江戸時代に参勤交代の諸大名をはじめ、長崎奉行、巡見使などが休憩 していたところという。天保7年(1836年)10月2日の火災で消失後に再度建築されたものという。
現在は、記念館として北九州市の職員と思われる人が管理し、 丁寧に説明などしてくれる。(問合せ先:093-618-1836) 作者が訪問した時にも、建物内を丁寧に案内してくれた。
案内員の話では宿泊施設はなく、単にここに上がってお茶など一服のみしたとの事。 上がれるのは殿様だけで、家来たちは表で休憩が終わるまで待っていたという。 写真のトイレはもちろん木製で現在は使用されていない。案内員に聞きそびれたが、 休憩した姫様はじめご婦人方もこのトイレを使ったのだろうか? もちろん、現代のように男子・女子用区別はなかった。
石坂
案内板(北九州師教育委員会)によれば、黒崎方面の地形は現在と異なり、小嶺インターチェンジ付近から、 山を上り、頂上から「アケ坂」という急坂を下り、さらには「中の谷」の谷底から上石坂 の急坂を登るという難所であった。このため、大名でさえも駕篭を降りて 歩いたという。
大日堂
地元の方々のお世話で、境内の清掃が行き渡っていました。 境内の石仏の前の茶話には新しい水が全てついでありました。
一里塚跡-茶屋の原二丁目
以下は案内板からの抜粋である。
小嶺と茶屋の原の間は距離が1里に満たず、 六合道と呼ばれていました。 これは、アケ坂、石坂などの険しい坂道があったことを配慮したものと思われます。 古老の話では、ここの一里塚には、松と椎の木が植えられていたと言われています。
この一里塚跡の石碑は、昭和57年に地元の郷士会によって建てられたものです。 -- 北九州市教育委員会
『筑前國続風土記』巻之14 遠賀上 ○茶屋原 に茶屋の原の名の由来が記載されている。引用する。
馬場山の境内なり。 秀吉公朝鮮征伐の時、通り給ひしより立し町也。 此時秀吉公の休み玉ひし茶屋址あり。 其所は30間四方許土手を築廻せり。 是よりして町の名を茶屋の原と云。 此茶屋の跡に寛文年中1661-1672、村浦に在し天神の社をうつせり。
にこの付近を「天神の社」を探してみたが発見できなかった。 一里塚の裏手は住宅地のなっており、再開発されているのでどこかの神社と統合されたのかもしれない。
明稲荷大明神
明稲荷大明神は真名子公民館の敷地中にある。街道はゆるい下り坂を木屋瀬宿に向かって進む。













































