原田宿[長崎街道] HARUDA STATION
概要
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』
原田宿は筑前六宿の一つで、筑後・肥前と接した宿場である。創設は慶長16年(1611)ころと言われている。
原田宿内にはそれぞれの旧跡の前に金属製の案内板が設置されているが、残念ながら風化の為ほとんどが判読不明である。 関係組織の皆様の改修を切に望むものである。
ここでは長崎街道の原田宿より次の田代宿の手前までについて述べる。
1800年代の当時の様子は『筑前名所図会』に筑紫神社、東構口の位置関係がよく描かれている。
『筑前國続風土記』巻之9の内容をそのまま引用する。
○原田村
筑前國田代に通る宿驛也。 此宿の西九町に、肥前筑紫筑前三國の境、大路の東小山の上にあり。 三國境と云。 此村は筑紫村の内也。 後わかれて二村となる。
筑紫神社
街道は元禄の鳥居より参道を下って東構口に進む。
東構口
筑紫神社の1の鳥居の前あたりに東構口があったと言われている。写真でご覧のとおり、構口の面影はなにも無い。
伯東寺前
伯東寺は浄土真宗本願寺派の寺院でその山号を日東山という。
筑後国竹野郡筒井村にあった寺を延宝4年(1676)にこの地に移転されたと言う。
本堂脇に原田宿の名物であった「はらふと餅」ついたと言われる石臼がある。 その案内板の絵を見ると当時の賑わいの様子がわかる。 ここのその案内板の内容をそのまま記載する。
はらふと餅とは、手のひらほどの大きな塩餡餅のことです。 険しい三国峠や冷水峠を越えるときの "腹ごしらえ"として原田宿の名物になっていました。
近世後期から、江戸では、 小ぶりで砂糖餡の「大腹餅(のち大福)」が好まれるようになりました。 原田宿は長崎街道の宿場町で、 いち早く砂糖も通ったと考えられますが、 幕末に親しまれていた「原田宿のはらふと餅」は塩餡のままだったのか、 あるいは砂糖餡に変わっていたのか、 それを示す確実な史料は知られていません。
『長崎街道 大里・小倉と筑前六宿 [九州文化図録撰書1』によれば、餅屋は東構口と筑紫神社の間にあったのではないかという記載がある。 時が過ぎ、その餅屋がなくなったときに臼をお寺内に持ち込んだものであろう。
御茶屋跡
未稿
西構口
西構口跡にはその痕跡は何も残っていない。 ただ、大きな案内板が3枚あるのみである。
三国境
国道3号線脇に国境石がひっそりと立っている。どうやら、これはレプリカで本物は地下のマンホール下に 保存されているらしい。(下の案内板の内容を参照のこと)
また、三国境石が国道の反対側の温泉施設アクアフォーレの裏山の山頂にあるらしいが未だ未確認である。
この地の案内板の内容をそのまま記す。
国境石
この境石は、肥前国(現在の佐賀県)と筑前国(現在の福岡県)の境界を示すものとして、文化4年(1807)に 対馬藩と黒田藩との話し合いによって建てられました。 もとは、ここより東側15メートルの所に建っていました。 しかし、昭和60年度より一般国道3号のバイパス建設が行われたときに、境石の覆石(基礎石) は南北の傍示石はマンホールを建設してバイパス地下に現地保存して、その姿をここに復元しました。
当時、境石の建っていた地点は、国境の野地でそこに境界の「標」と考えられる松の木がありました。 その松の木が枯れたのを機会に境石を建てる議論が起こり、対馬藩は城戸村の庄屋、黒田藩は原田村の庄屋が 高尚にあたりました。 しかし、枯れた松の位置や野地の分け方について話し合いがつかなかったので境石の建設には、2ヶ年の歳月がかかりました。
境石の南側10.9メートルと北側11.8メートルの地点には、傍示石があります。 境石と傍示石は、二本の石柱を背中合わせにし、それぞれ「是従西肥前国対州領」 「是従東筑前国」ときざんでいます。また、これらの背中合わせにした線を 両国の境界としています。
境石は、高さ2.6メートル、太さ28センチメートル角の石柱で地中の覆石にはめこまれています。 また、傍示石の高さは、南側のものが1.5メートル、北側のものが1.2メートルです。太さは。いずれも28センチメートル角で 境石と同様に地中にはめこまれています。
昭和63年3月建設 建設省九州地方建設局
長崎街道道標
道標脇の街道が50mくらい続いてその先は行き止まりである。 その街道は敷石が残っている。
道が復活したところ
街道はこの手前の国道3号線のポプラ基山店付近からJRの線路を越えてこの地点に来るはずである。 その道は消失している。街道はここより復活する。
地蔵堂
田代宿に向かって右の少し高くなったところに鎮座している。
猿田彦
巨大な猿田彦であり。 取材中に近くの住人の方と思しき方がお参り手を合わせていた。 地元の方々の信仰心が熱いであろう。
猿田彦の数10メートル先には白坂陣屋跡と思われる建物がある。この建物が何のためのものなのかは作者は知らない。(要調査)
道標
街道右手に「長崎街道」の道標がある。
道標
「せきやかみはし」という橋を渡ると、街道左手に「長崎街道」の道標がある。
若宮八幡宮
鹿児島本線をふたたびまたぐとすぐ右手にの丘の上に若宮八幡宮が鎮座している。
本殿前の狛犬には文政1818-1829の銘あり。
道標(基山)
道標の前の街道はかなりの交通量である。
道標脇の案内板の内容を抜粋する。
(前略)
街道沿いにある基山町は、田代宿(鳥栖市)と原田宿(筑紫野市)の間にあり、 役7.5kmの工程でケンペルの江戸参府旅行日記に、白坂、木山口などの地名が見える。 木山口町は、長崎街道沿いに正保2年(1645)成立した町で、 木山口若宮八幡宮縁起によると、千塔山の麓を開き町をつくり、 木山(基山)の入口に位置することにより、木山口と称したとある。 また、田代宿と原田宿の間にあって木山口宿とよばれ、現在も字名に"宿"の名をとどめている。
天満神社
境内には大黒天の石像があるが拡大写真を撮影しなかった。次回取材の際はこの写真も撮影しよう。
神社前には街道をはさんで庚申尊天が鎮座している。そこの案内板の内容を下に記載する。
長崎街道・今町
長崎街道は江戸時代、西洋文明への唯一の窓口だった長崎と、 小倉を結ぶ25宿・57里の往来でした。 鳥栖市内には、北が筑前原田宿・西が肥前中原へと通じる道筋が通り抜けていました。
今町は北の木山口~南の田代宿間の街並で、 街道沿いに軒を連ねるように家並が続いていました。 元禄絵図によれば、町立されたのは承応2年1653で、 通りの東は奈良田村・西は柚比村に属していました。 合計30戸ばかりの家並が続いていたようです。
現在も街並はさほど壊されることもなく残り、 昔からの祭り"恵比寿さん"も引き続き執り行われれています。
-- 鳥栖市教育委員会
庚申尊天前の石碑には寛政10念(年)1798の銘がある。
道標(赤坂)
「長崎街道左・原田宿へ(赤坂)」「長崎街道右・田代宿へ(赤坂)」
道標付近の街道は上り坂になっている。
道標(足洗川)
「長崎街道左・原田宿へ(足洗川)」「長崎街道右・田代宿へ(足洗川)」
この道標をすぎると間もなくすると田代宿内に入る。










































