若松宿[唐津街道]  WAKAMATSU STATION

概要
  • 洲口番所跡石碑
    洲口番所跡石碑 
若松浦・蛭子社・日吉社 問屋場・回船 図
若松浦・蛭子社・日吉社 問屋場・回船 図
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』

ここでは若松宿より芦屋宿に至る街道を記載する。

筑前國続風土記』巻之4に下記のような記述がある。

○若松

町あり。民家多し、是當國東北の端に在て、豊前長門凡上方への渡口なり。 むかしは修多羅の枝村なりしが、長政公入國の後、別村となる。 宗祇が筑紫紀行[4]に曰、「うつりて行て筑前國若松の浦といふにつきぬ。 則此所をしる人麻生の何某兄弟、ある寺にむかへとりぬ。 かた山かけてうへ木たかきかげあり。内外の海を見るに、芦屋のけぶり、 くれわたる入日影に移ろうほど、又いふかたなし。 此二人は将軍家の奉公の人に侍れば、都の物語こまやかにして、いろいろの さかなもとめ出たるほど、こよろぎのいそがはしさも思ひやらる。 さかづきさかななり、さし更る月のひかりも思ひやらる。 さかづきさかななり、さし更る月のひかりもただばらず。 今宵は十三夜なれば、発句
名やおもふ今宵しぐれぬ秋の月

この時宗祇が宿せし寺は正法寺といふ禅寺なり。 今は廃してなし。長政公入国の後、此所に飛船數十艘をつなぎ、舟司舟人等多く置て、 急用に備へらる。 これは芦屋洋は風あらき時は、舟の往来成がたき故、此所より使の人を舟にのせて、 大阪に遣すべき為なり。

[4]筑紫紀行:『筑紫道記(つくしみちのき)』の誤りか?


洲口番所跡[若松宿]
  • フェリー乗り場
    フェリー乗り場 
  • フェリー
    フェリー 
  • 洲口番所跡横の街道 - 芦屋宿に向って撮影
    洲口番所跡横の街道 - 芦屋宿に向って撮影 

街道は対岸の戸畑より船で渡り芦屋宿へと進む。 今でも程近いところに戸畑へ渡るフェリー乗り場があり、利用者も多いようである。 余計な亊ではあるがフェリー料金が大人片道¥100である(2009/11現在)。安い。 運営会社は未確認であるがこれで運営できるのであろうか?

石碑の脇にある案内板の内容をそのまま記載する。

洲口番所は船着番所とか船改(ふなあらため)番所ともいい、 正徳年間(1711-1716)福岡藩が人や品物の出入を監視、管理するために設けたものです。 若松のほか芦屋と福岡に置かれていました。

この番所は寛延4年(1751)若松代官が廃止されてから、黒崎代官の管轄になり、 明治4年(1871)に廃止されました。 - 北九州市教育委員会


吉祥寺前[若松宿]
  • 吉祥禅寺の山門
    吉祥禅寺の山門 
  • 吉祥禅寺前の街道 - 芦屋宿に向って撮影
    吉祥禅寺前の街道 - 芦屋宿に向って撮影 
  • 吉祥禅寺前の古い商家
    吉祥禅寺前の古い商家 

吉祥禅寺は曹洞宗のお寺で山号を瑞雲山と云う。 その裏手には若戸大橋がひかえる。 山門・本堂共かなり古いものであり格式を感じる。

筑前國続風土記』巻の三によれば福岡市中央区の吉祥寺 は本寺の子院であったようである。


善念寺前[若松宿]
  • 善念寺の境内
    善念寺の境内 
  • 善念寺前の街道 - 芦屋宿に向って撮影
    善念寺前の街道 - 芦屋宿に向って撮影 

善念寺は浄土宗の寺院である。 山号を若松山という。

境内の大きな石地蔵はよく目立つ。 境内の案内板によれば本堂は明治29年1896に建て替えられたものとある。


エトス本町商店街-ウェル本町商店街[若松宿]
  • エトス本町商店街入口 - 芦屋宿に向って撮影
    エトス本町商店街入口 - 芦屋宿に向って撮影 
  • ウェル本町商店街入口 - 芦屋宿に向って撮影
    ウェル本町商店街入口 - 芦屋宿に向って撮影 

街道はここより商店街の中を一直線に進む。 ウェル本町商店街には手動式のポンプが街道筋にいくつもあった亊が印象的である。


極楽寺前[若松宿]
  • 極楽寺の山門
    極楽寺の山門 
  • 極楽前の街道 - 芦屋宿に向って撮影
    極楽前の街道 - 芦屋宿に向って撮影 

極楽寺商店街のはずれに伽藍を構える浄土真宗本願寺派のお寺である。 寺前の案内板によれば寛政元年(1460)に開基されたとある。


若松駅前[若松宿]
  • 若松駅
    若松駅 
  • 若松駅のホーム
    若松駅のホーム 
  • セム1石炭車
    セム1石炭車 
  • セム1石炭車
    セム1石炭車 

若松駅は筑豊本線の終端駅で昔は筑豊本線沿い炭鉱からの石炭の集散地であった。 駅の脇の屋外に陳列されている石炭車は作者が子供のころ良く見かけたものであり懐かしい。


二島(ふたじま)駅前[若松宿]
  • 二島駅
    二島駅 

未稿


小敷(こしき)の太閤水
  • 太閤水前の街道 - 芦屋宿に向って撮影
    太閤水前の街道 - 芦屋宿に向って撮影 

『筑前國続風土記』巻之14の内容をそのまま引用する。

○太閤水

小敷村の西四五町、洞海(くきのうみ)[1]の南側海辺にあり。 道のほとりなり。 小敷村の境内也。 豊臣秀吉公筑紫に下り給ひし時、 此処にて人をして地を掘らしめて水を得たり。 頃刻(きょうこく)[2]に則石を畳みて井とし玉ふ。 後人是に依て太閤水と號す。 其水甚いさぎよし。 近村の酒家此水を汲取て酒をかもす。

[1]洞海湾。

[2]しばらくして

太閤水[小敷]も参照のこと。


安楽寺前
  • 山門
    山門 
  • 本堂
    本堂 
  • 経蔵内の経本
    経蔵内の経本 
  • 山門脇の経蔵
    山門脇の経蔵 

安楽寺は浄土真宗本願寺派のお寺である。 境内の経蔵はお経でいっぱいで必見である。

以下に経蔵脇の案内板の内容をそのまま記す。


輪蔵附経蔵(りんぞうつけたりきょうぞう)

輪蔵、経蔵ともに保存は良好であるが、傳大士・脇侍は破損している。 輪蔵には鉄眼版一切経(てつがんばんいっさいきょう)2000巻あまりを収め、 総檜造りの八角形である。

この輪蔵附経蔵の寄進者である倉野儀兵衛義和(くらのぎへいよしちか)は 屋号を”吉野屋”といい、その二代目を継ぎ伊万里焼陶磁器を遠く奥州まで販売する豪商で、 安政元年(1854)大阪で客死[3]した。

生前、儀兵衛が寺へ布施していた一切経を嫡子義寿(画号、煌園(こうえん))が 父の志を継ぎ、その不足を補って完備し、総檜八角形の輪蔵とそれを収納する経蔵を建て、 安政5年(1858)安楽寺へ寄進したものである。 - 昭和63年9月10日 芦屋町教育委員会

[3]異国の地で亡くなる亊。


鹿門学舎跡
  • 石碑
    石碑 
石碑前の街道 - 芦屋宿に向って撮影(左手に石碑)
石碑前の街道 - 芦屋宿に向って撮影(左手に石碑) 

鹿門学舎は山鹿小学校の前身であったようである。


渡し場跡
  • 渡し場跡 - 対岸が芦屋宿
    渡し場跡 - 対岸が芦屋宿 

街道はここより船にて芦屋宿に向う。