博多[唐津街道]  HAKATA

概要

  • 石堂橋 - 上流の東大橋より撮影。向って左が博多
    石堂橋 - 上流の東大橋より撮影。向って左が博多 

博多区役所発行の『博多情緒めぐり 公式ガイド』によれば、博多の名前の由来は 「羽形」「泊潟」「羽片」「葉形」などの他多数あると言う。博多の歴史は古く 天平3年(759年)の『続日本記』で「博多」という言葉が初めて文献上に現れると言う。 「海域、土地(ひろ)く、人、物多し」で「博多」という指示が多いと言う。


石堂橋(いしどうばし)

  • 石堂橋 - 博多に向かって撮影
    石堂橋 - 博多に向かって撮影 

石堂橋を渡ると、いよいよ博多である。


一行寺(いちぎょうじ)

  • 一行寺前の街道 - 写真奥が石堂橋、右手が一行寺
    一行寺前の街道 - 写真奥が石堂橋、右手が一行寺 
蓮池寺町 - 当時のこの場所の様子がよく描かれている。
蓮池寺町 - 当時のこの場所の様子がよく描かれている。
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』

筑前名所図会』の左上が石堂橋。石堂橋を渡るとすぐ左に 一行寺選擇寺。 すぐ右手には海元寺、 その隣には正定寺。 その他、本興寺 善導寺 妙典寺 などもほぼ現在のままの位置関係で描かれている。

街道には、商人・馬・僧侶などのすがたも見える。

『福岡町名散歩』によるとこのあたりは、江戸期には古門戸町(こもんどまち)と呼ばれ、町内には人馬継所があったという。


網敷天神(つなしきてんじん)

  • 網引天満宮
    網引天満宮 

網敷天神は街道より一筋明治通り側の通りに面してある。 下に案内板の内容をそのまま記す。

菅原道真が太宰府に左遷されて赴任の途中、(そで)の浜に上陸 したとき、住民達は綱で敷物をつくり出迎えたと言われている。 その後、その場所に社殿が建ち綱輪(つなわ)神社といってが、 次第に綱場とよばれるようになって、現在、町名として残っている。


東中島橋

  • 渡唐口跡 - 鏡天満宮の脇にある
    渡唐口跡 - 鏡天満宮の脇にある 
  • 鏡天満宮
    鏡天満宮 
中嶋東西の橋 札の辻の図 - 東西の中島橋が見事に描かれている。本図は博多湾側から見た図で、左手前が東中島橋、右が西中島橋で、東中島橋のたもとには高札場と思われる建物も見られる。人々の往来も丁寧に描かれている。また右手奥には住吉神社も見える。
中嶋東西の橋 札の辻の図 - 東西の中島橋が見事に描かれている。本図は博多湾側から見た図で、左手前が東中島橋、右が西中島橋で、東中島橋のたもとには高札場と思われる建物も見られる。人々の往来も丁寧に描かれている。また右手奥には住吉神社も見える。
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』

唐津街道は鏡天満宮の後のホテルの中を通っていたという。 もちろんその道は今は通れない。


西中島橋

東中島橋を過ぎ、西中島橋を渡ると福岡城下である。 その入り口にはりっぱな(ます)形門があったという。 桝形門は九大ディジタル・アーカイブ 「福岡城下之絵図」に小さく描かれている(絵の右上が西中島橋。すぐ西にある)。