福岡[唐津街道]  FUKUOKA

概要

  • 福岡城址(天守台に通じる急峻な石段)
    福岡城址(天守台に通じる急峻な石段) 
城下遠近惣図 1
城下遠近惣図 1
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』
城下遠近惣図 2
城下遠近惣図 2
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』

博多より西中島橋を渡るとそこから黒田藩の城下町福岡である。 福岡の町の名前の由来は下の福岡城址の項で詳しく説明する。

水鏡天満宮前から室見橋までの街道を紹介する。


水鏡天満宮前

  • 水鏡天満宮 - 街道側の鳥居
    水鏡天満宮 - 街道側の鳥居 
  • 水鏡天満宮 - 表参道
    水鏡天満宮 - 表参道 
水鏡天神社
水鏡天神社
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』

東中島橋側から西中島橋を渡った左脇に水鏡天満宮がある。 その歴史については、境内の説明板の内容をそのまま記す。

社伝では延喜元年(901)菅原道真(すがわらみちざね)が太宰府に赴任の途中、 四十(しじゅう)川(市内中央区)の清流で水鏡したといわれて、のち、そこに 社殿が建ち水鏡天神または姿見(すがたみ)天神といった。 慶長17年(1612)藩主黒田長政は水鏡天神をこの地に写、2代藩主忠之は社殿を建てた。 天神の町名はこの神社にちなむものである。

水鏡天満宮 | 神社めぐり参拝帳の記事も参照のこと。


福岡城址

  • 祈念櫓
    祈念櫓 
  • 下之橋御門
    下之橋御門 
  • (伝)潮見櫓
    (伝)潮見櫓 
  • 名島門
    名島門 
  • 天守台の台座
    天守台の台座 
  • 天守台のより大濠公園を望む
    天守台のより大濠公園を望む 
  • 天守台のより本丸跡・福岡市内を望む
    天守台のより本丸跡・福岡市内を望む 

JR博多駅から地下鉄で所要時間約15分。 福岡城址は舞鶴公園の西側にあり、福岡市民の憩いの場である。城の建物はいくつかの門しか残っていない。 春は花見の賑わいがある。

妙に観光化されていないとこら良い。観光客がどっと押し寄せる事もめったにない。 ふらっと行って、石垣の脇に座って一服などされたら気分は良い。 また、天守台からの福岡市内の眺めは良い。

慶長6年(1601年)から7年かけて築城された。 「福岡城」の名前は黒田藩再興の故知である備前国(岡山県)邑久(びく)郡福岡にちなんで付けられた。 総面積80万平方メートルは全国でも有数の規模である。 (昭和32年国史跡の指定を受ける。)

福岡城の建築の経緯などは『筑前國続風土記』巻之3に詳しく記述されている。 ほぼ原文のまま引用する。段落、ルビ、注釈は作者が挿入した。

○福岡城

慶長五年(1602)、黒田長政公、初て此國を領したまひ、 其年12月11日に入國し、先名島の城に住給う。

名島の城は、天正15年(1587)豊臣秀吉公より、此國を小早川隆景に給りし時、始て築かる。 良将の経営せる城にて、要害よろしければ、長政公の父如水公は、舊に依つて是を居城とすべし。 別に城を築かん事は、國の費え民の苦み幾許ならん。 何ぞ必改め作らんやと仰せける。

されども長政公つらつら未然を考え給ひ、此城境地かたよりて城下せばき故、乱世にはよろしけれ共、 世治りては、久しく國を守るべき地にあらずとて、其由を如水公と相議し、別に城郭によろしかるべき地を、 處々見そなはし給う。住吉、箱崎、荒戸山など、運河をおびて要害ある地なれば、城を築くいべきかと評議し給へど、 又よろしからざる事もありて、利害相半せしかば、皆心に叶はずして、終りに那珂郡警固村の境内、 福崎と云所において、あらたに城地を経営して、山に依て城を築き、堀をほり廻し、郭を構へ、要害堅くし給ふ。

慶長6年に、城郭栄作の事始ありしが、世既に無事に属すといへども、 大乱の後なれば、猶不意の変もあらんかとて、長政公城郭の造作をいそぎたまひ、 みづからはかりいとなみ、長臣と共に日々其功程を察したまひし故、諸臣も庶民も、 皆勤めておこたらざりしかば、かほどの城郭、其功速に成れり。

頓て郭の内外、諸士大夫の宅門をならべて作り出せり。 工商の家も、戸を連ねて(いちぐら)[1]を開き、各其稼業を営みなせり。

長政公遠きをやすんじ、近きをなつけたまひしかば、城下の万民 年々に繁昌し、百工月々に来り集まれり。又國中所所に、七ケ所端城を築せらる。

  • 上座郡左右良(までら)
  • 小石原(こいしはら)
  • 夜須郡の彌長(いやなが)
  • 嘉麻の盆富
  • 鞍手の鷹取
  • 遠賀の黒崎
  • 若松

是也。 本城端城ともに、凡7年の間に(ことごと)く成就せり。 其功極て速なりと云つべし。

抑此邑のなを福岡と號せられしは、長政公先祖は、江州佐佐木の一族たりしが、 長政公の曾祖父黒田左近大夫高政公、故有て備前國邑久郡福岡の里に移りたまう。 其子下野守重隆も、福岡の産なり。 長政公基本を思ひ出して、先祖の住たまひし所を用ひて、かく名付たまひしとぞ。 唐土の代々の都の名も、多くは其草創の帝王の初住たまひし所を以て 名付たり。是本をおもんじ初めをわするるは、仁人孝子の心にあらず。 如水公長政公も基本をわすれず、かく大国の主と成給へ共、 (なお)先祖の居所を思ひしたひて、其築ける城に名付たまふ事、誠に至りて厚き志也。

城の西の方、むかしは福崎の汀まで入海ありて、広きは潮入の潟地なりしを、 此城を築かるるとき、是を埋て平地とせば、人力を費なん。 是を用ひて要害とすべしとて、猶其地を掘て。則塘(ためいけ)に用ひらる。 今城下の(ほり)に、海魚多きも、始潮入しところなればなり。

城の北の方町ある所、又乾の方荒戸、諸士の屋敷など、むかしは入海の潟地也。 中にも荒戸山の下は大船多く泊りける程の深き海なりしが、此城を築きたまひし初、 多くの人力を用ひて、やうやく海を埋め、終に平地として、士民の居宅となれり。

又城の南方は、赤坂山より本丸の山につづきて要害のためありしかば、 山をほりて切て隍とし、隍の南の山をならし平にす。 城内のいぬゐ[2]に、小高き山あり。 是又本丸より高しかば、山をならしてひきゝ岡とし、如水公の兎裘(ときゅう)の宅地[3]とせらる。

郭の東は那珂川をかぎり、河中に中島を築きて、 商家の(まち)とし、中島の東西に、長橋をニ[4]渡して、博多に続けり。

又郭の東南に、長隍をほる。 其東のいはしの一区は、鍋島加賀守直茂より、加勢として人夫を多く援て、隍をほらせらる。 故に今も其所名付て肥前隍と云。

城の西は、早良河を以て、外郭(そとくるわ)とし、 其前百道(もゝち)原は、むかしより砂原也しに、 小松を植て広き松原とし、其内にひ[5]伊川あり。 猶其内に隍ニありて、唐人町の東の隍を以て内郭とせり。

城の北は海、南は山なれば、郭を構ふるに及ばす。 其後年久くして城のめぐりの隍、やうやく泥土流入て浅く成ぬ。 光行公の時、公の申て埋れる泥土をほりのけて、隍をさらへ、水をふかくせしむ。 其惣司、家臣竹森新衛門利實に命ぜらる。 下奉行の諸士凡十人、延宝元年(1673)の冬より事をしはじめ、同七年其功成ぬ。 長政公の城下のほりをほらせ給ひし時、城の西、鳥飼村のひがし、別業茶屋の石がき際まて水たゝへ、 船にて鳥飼の茶屋に着給ふ。 又中島もありしが、やうやく水あせて、鳥飼の東に近き所は、草(らい)の地[6]となる。 此時其所をば農民にあたへて新田とし、其東の方隍の西のかぎりに、 南北に長き土堤(どて)をつかせ、唐人町より赤坂田島村の方に行通路となる。 是又延宝年中(1673~1681)隍をされへし時の事也。

[1](いちぐら):店舗のこと。

[2]いぬゐ:戌亥。西北。

[3]兎裘(ときゅう)の宅地:隠居所。

[4]昭和通りにかかる東中島橋・西中島橋。

[5]田偏に比の字。現代の桶井川のこと。

[6]草(らい)の地:荒れ果てた草地。


西公園入り口

  • 光雲神社の表参道
    光雲神社の表参道 
  • 西公園入り口(明治通り)-西新に向かって撮影
    西公園入り口(明治通り)-西新に向かって撮影 
  • 光雲神社
    光雲神社 
  • 西公園北側から博多湾を望む
    西公園北側から博多湾を望む 

ここはその昔荒戸山(あらとやま)と言った。 現在もこの近辺は「荒戸」という地名である。 『筑前名所図会』では、荒戸山には東照宮が建っていたが、現在はその位置に光雲(てるも)神社 が鎮座している。

西公園は市民の花見の名所で、作者もほぼ毎年花見に行く。 山の裏手(北側)には展望台があり、博多湾・志賀島・能古島を眺める事ができる。

『筑前名所図会』で当時の様子が精細に描かれている。


荒戸山東照宮図 其一 - 中央に<ruby>鵜来島<rp>(</rp><rt>うぐしま</rt><rp>)</rp></ruby>が描かれている
荒戸山東照宮図 其一 - 中央に鵜来島(うぐしま)が描かれている
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』
荒戸山東照宮図 其二 - 荒戸山を当方から描いている。手前は中央区港の須崎漁港か。図では荒戸山の北側は海であるが、現在は埋め立てられ都市高速が走る。その先は石油コンビナートなどの工業地帯となっている。
荒戸山東照宮図 其二 - 荒戸山を当方から描いている。手前は中央区港の須崎漁港か。図では荒戸山の北側は海であるが、現在は埋め立てられ都市高速が走る。その先は石油コンビナートなどの工業地帯となっている。
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』
荒戸山東照宮図 其三 - 東照宮全体が描かれている
荒戸山東照宮図 其三 - 東照宮全体が描かれている
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』
荒戸山東照宮図 其四 - 現在の西公園入り口付近と思われる。	荒戸山前の唐津街道と思われる道が描かれている。このあたりは当時家が立ち並んでいたようである。
荒戸山東照宮図 其四 - 現在の西公園入り口付近と思われる。 荒戸山前の唐津街道と思われる道が描かれている。このあたりは当時家が立ち並んでいたようである。
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』

黒門(くろもん)

  • 唐人町商店街入り口
    唐人町商店街入り口 
  • 黒門跡
    黒門跡 
  • 黒門飴(きな粉をまぶしてありました)
    黒門飴(きな粉をまぶしてありました) 
  • 黒門飴(板谷商店)
    黒門飴(板谷商店) 
  • 唐人町商店街の加美屋(お菓子屋) - 看板に創業享保2年(1717年)とある。
    唐人町商店街の加美屋(お菓子屋) - 看板に創業享保2年(1717年)とある。 
唐人町
唐人町
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』

街道は黒門飴の前を通り、唐人町(とうじんまち)商店街の中に向かう。 商店街を抜け善龍寺に突き当たりそこより左に直角に曲がる。


やな橋跡

  • やな橋跡 - 西新に向かって撮影
    やな橋跡 - 西新に向かって撮影 
鳥飼八幡宮 解説 梁橋・米田橋 - 図の上部が北側と思われる。手前がやな橋
鳥飼八幡宮 解説 梁橋・米田橋 - 図の上部が北側と思われる。手前がやな橋
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』

昔は菰川(こもがわ)にかかっていた橋の跡である。今は地下の水路となり、その役目はなくなっている。 街道は写真の右側を西新に向かって進む。


鳥飼(とりかい)八幡宮前

  • 鳥飼八幡宮(画面右手)前 - 西新に向かって撮影
    鳥飼八幡宮(画面右手)前 - 西新に向かって撮影 
鳥飼八幡宮 1
鳥飼八幡宮 1
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』
鳥飼八幡宮 2
鳥飼八幡宮 2
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』

画面右手が鳥飼八幡宮である。現在は神社裏手の明治通りが表に見えるが、当時はこの唐津街道側が表であった。

この先、大通寺、金龍寺もこの街道沿いに山門がある。


大通寺前

  • 大通寺前 - 西新に向かって撮影
    大通寺前 - 西新に向かって撮影 

大通寺の先に 金龍寺がある。


今川橋

  • 今川橋 - 西新に向かって撮影
    今川橋 - 西新に向かって撮影 

今川橋を渡ると西新商店街となる。写真では見づらいが、左手先に白壁の建物が見える。


西新(にしじん)商店街

  • 西新商店街入り口
    西新商店街入り口 

街道は西新商店街のメインストリートを西に進む。

西新商店街は下町の情緒があり、リヤカーの出店が道の真ん中に並ぶ。野菜・魚・漬物など地元産の食料品をおばちゃんたちが 売っている。


藤崎(ふじさき)通商店街

  • 藤崎通商店街
    藤崎通商店街 

藤崎通商店街は西新商店街の延長線上にあり、雰囲気は西新商店街と全く同じである。


猿田彦神社

  • 猿田彦神社
    猿田彦神社 
  • 猿田彦神社前の街道 - 姪浜宿に向かって撮影
    猿田彦神社前の街道 - 姪浜宿に向かって撮影 
  • 向かって左の猿
    向かって左の猿 
  • 向かって右の猿
    向かって右の猿 

藤崎通商店街を抜けて明治通りに合流する。ご覧の通り交通量が多い。

猿田彦神社 | 神社めぐり参拝帳に詳しい記事がある。


一里塚跡

  • 一里塚跡
    一里塚跡 
  • 白壁造りの家
    白壁造りの家 
藤崎口 曇華庵 一里塚 - 図左下に小さく描かれている
藤崎口 曇華庵 一里塚 - 図左下に小さく描かれている
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』

一里塚は街道左手の福田眼科前にひっそりと建っている。 福田眼科より街道の反対側には白壁造りの家がある。


飛石(とびいし)

  • 飛石橋 - 西新に向かって撮影
    飛石橋 - 西新に向かって撮影 
  • 飛石橋下の金屑川
    飛石橋下の金屑川 

その昔はここには橋が無く、川は浅瀬の飛び石つたいに渡っていた。 ここは博多湾の海水が入り込む場所で、干潮時には脛くらいまで水が引くので それで飛石でまにあったのかもしれない。


室見橋(むろみばし)

  • 室見橋 - 姪浜に向かって撮影
    室見橋 - 姪浜に向かって撮影 

ご覧の通り、都市高速が架かり正面の愛宕神社は参道入口しか見えない。

室見橋を渡れば、次の姪浜宿である。