深江宿[唐津街道] FUKAE STATION
- 概要
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深江駅・天満宮 正覚寺・子負原八幡
九州大学デジタルアーカイブ『筑前名所図会』2009年9月27日に続き2011年8月20日にも訪問した。 未だ街道の正確な経路など把握できず、記事は中途半端なものになっている。 (名前などが分からない写真などもあり掲載できていない。) また訪ねてみようと思う。
右の『筑前名所図会』で羅漢橋、正覚寺などほど現在の位置に描かれている。
- 羅漢橋跡
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羅漢橋は福岡西方沖地震(2005年3月20日)により倒壊したとの事。 橋脚近くには年代物の石が積まれている。未確認ではあるが、旧橋の部材か?(2009/10/25記)
暫定版かっもわからないが、コンクリートの橋が新しくかかっている。
- 正覚寺前
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正覚寺は山号を誓願山といい、宗派は浄土宗である。
- 常夜灯
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『街道と宿場町』によると、火災封じの願をかけて天保3年(1832年)に建てられたという。
- 深江神社
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未稿
- 猿田彦の石碑
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未稿
- 202号線との接点[大入]
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街道は写真の松原側の海岸沿の道を浜崎宿に向って進む。写真手前は202号線。
写真の横断歩道の左側にはJR大入駅がある。無人駅である。(2009/10/24現在)
- 海岸[大入]
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このあたりは夏場は海水浴客で賑わう。海は澄んでいて、砂は真っ白である。 作者はたまにここにシロギス釣りに行く。
- 庚申塔[大入]
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水島商店の脇に庚申塚はある。そこから海側へ50mほど行くと大入漁港がある。 ご覧の通り、綺麗な漁港である。
- お地蔵様[大入]
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大入公民館の脇に鎮座されている。
- 庚申塔[大入]
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福よし歯科医院のそばに鎮座している。 石燈篭には文化5年(1808)の銘あり。
- 番所跡
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番所跡前はR202が走り、車がひっきりなしに往来している。 番所跡には「地蔵尊」が鎮座している。 地元の方々の信仰心があつく、きれいに清掃され、花も手向けられている。 案内板の内容をそのまま記載する。
「白み口」と「地蔵尊」
初代唐津城主、寺沢志摩守広高が、 慶長4年1599に怡土郡3万石を加増され開田や開塩事業の督励のため、 よく現地廻りにでかけていた。
早朝に唐津を出て馬で出発、 東の空が白みかける頃ちょうどこのあたりに来ていた。
その為にこの周辺を「白み口」と呼んでいた。
地蔵尊は享保18年1733に大飢饉があり当時の二丈町の3分の1に当る約1500人の人々が死亡。 地蔵尊にまとめて葬った。 相前後して六ヶ所の地蔵尊がつくられたという。
番所の地蔵尊の台座には、この功績をたたえて大法寺7代和尚のことが天明1786の 日付で残っている。
--- 福吉校区まちづくり推進協議会
祠の右側には「地蔵菩薩台座曰」なる台座の拓本と思しきものが額に入って安置されている。 かなりよみづらいが「大法寺高績巧和尚云々」の文字がある。(右写真) 大法寺はここから南側に伽藍を構えている。
- 福吉入口[福吉]
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ここから202号線に別れ福吉の漁師町に入る。
- ふくよし橋[福吉]
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橋の向こうに梵字石と思われる石があるが、風雪に削られてか文字は確認できなかった。
- 西縄手第3踏切[福吉]
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R202を横切り、踏切を越え、ここより山道に入る。
- 愛宕社
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愛宕社はちょうどこの街道の峠あたりに鎮座している。ここからは下り坂である。 『唐津街道』には鳥居に宝歴8年(1758)(天保7年(1836)再建)の銘があるように記載されているが、 かろうじて"寳歴"の文字のみ判読できた。
- 旧道入口
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道路脇に「古代の道標」「唐津街道」の二つの道標がある。 ここから次の目印までは旧街道の状態がよく保存されている。
- 白山神社
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白山神社は街道の唐津に向って右側の坂道を少し登ったところに鎮座されている。
- 永見寺
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永見寺前の街道は唐津に向って右側に唐津湾をながめながら進む。 永見寺は曹洞宗の寺院である。
- 国境石
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国境石(「是従東筑前(國)」) 
国境石西側面(「小川中央境」) 
国境石の小川がこの下のJR筑肥線に流れこんでいるトンネル) 
国境石すぐ浜崎宿側の街道 - 浜崎宿に向かって撮影) 
R202からは国境石へはこの道路標識右のJRの線路を渡り、田んぼのあぜ道を通りさらに坂道を登って行く(JRの線路を横断するのでかなり危険である) 
包石 - 平成14年(2002年)の大波 により瓦解したが、その2年後に地元の有志により修復されたという。 
包石全景 
包石脇の伊能忠敬の歌碑 
七郎神社境内の奉納されたおもちゃの刀 
七郎神社前の202号線 - 唐津に向って撮影 
七郎神社の境内 
七郎神社境内の石像 
県境の道路標識 - 唐津に向って撮影
国境石は清水が湧く小川に中に立っている。 表には「従是筑前國」、西側側面には「小川中央境」と刻まれている。 よくも小川と言えども水の流れる中に立てたものである。 当時も国境を厳密に規定していたことがうかがえる。 街道はこの小川を横切り、包石を右下に見ながら西に向かう。 国境石から20mほど街道跡がそのまま保存されているようである。 国境石から東側は絶壁となってお残念ながら街道跡は残っていない。 国境石は崖の上にある。ここにたどり着くまでの旧街道はかなりの悪路なので単独行はやめた方が良い。
この小川はそのすぐ下に走るJR筑肥線の線路下へ人口のトンネルを通り流れ、 さらにその線路下の七郎神社の境内に流れ込み、さらにその流れは唐津湾へと流れ込んでいる。 この国境石の場所にたどり着くには二つのコースがある。 一つは七郎神社より少し唐津よりのJR筑肥線の線路に登り、それを横切り、田圃のあぜ道を通り、 さらに坂道を登り・さらに下る(このコースはJRの線路を横切るのであまりお勧めできない)。 もう一つはR202を唐津方面に少し走り、最初に左側に見える踏切を渡り舗装された道路を国境石から50m位手前に車を止め そこから徒歩にておりる。
国境石から唐津湾を見下ろすと包石が見える。 『唐津街道 豊前筑前福岡路』によると、高さは5m。文禄・慶長の役で肥前名護屋に向う 多くの武将や、伊能忠敬をはじめ多くの人々が目にしたという。
包石脇に伊能忠敬の歌碑が建てられておりその説明によると、平成14年(2002年)の大波 により瓦解したが、その2年後に地元の有志により修復されたという。 下に伊能忠敬の歌を記載する。「測量日記 文化9年1812」の銘がある。
名にし逢う 響の灘の 白波は 鼓の石に おとづるるなり
包石の砂浜より202合線を横断すると七郎神社がある。 下に七郎神社脇の案内板の内容をそのまま記す。
七郎神社
藤原廣嗣(奈良時代太宰府小弐)が戦いに敗れ肥前に逃げる途中、 馬卆右馬七郎が足をすべらせ石窟に入り込み寒さを凌いでいた。 然し咳をしたので官軍に見つけられ自ら腹に刀を突きたて自害した。
天平12年760のことである。
土地の人が哀れに思い弔った。
現在かぜ、咳、ぜんそくの神様として参拝者があり、御願成就には木刀を供える風習がある。
-- 福吉校区まちづくり推進協議会
R202にはここより佐賀県の道路標識があり、石柱も建っている。
- 道標
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近辺を街道ルートを探して走り回っていたとき、偶然発見した。 すごい感激。




































